「おっ、今日は随分と人形がキレイになっているじゃないか」
ふと一限の授業を終えて欠伸を掻いていた楓が、カバンに付いている人形を見てそういった。
「そうかしら? 昨日といたって何も変えていないつもりなんだけど」
「いや、変えてあるね。この愛くるしい目つきとすべすべとした肌触り、すらりと伸びた髪の艶。うん、風呂にでも入れたな」
「いや入れてないから」
間髪いれずに否定をしつつも手に持っている人形をよく見てみると、確かにそこには肌の色がよく、解れて縫い合わせた部分も気持ち小さく見える。彼女の意見に同意するわけではないが、確かにこの上海人形はキレイなように見えていた。
「気のせいよ。だって昨日は家に帰った後直アルバイトに行って、かばんはそのまま家に置きっぱなし。上海人形には触れていなかったんだから」
そう、私が触れたといえば、昨日の昼に楓から上海人形を取り返した時くらいだ。
大方、昨日より見栄えがよく見れてキレイに見えるだけだとは思うが、もし本当に人形がきれいになっていたらそれはそれで少し気味が悪い。
多分あまり見ていないものを久しぶりに見ると新しく感じるように、私もまじまじと見ているから妙にキレイに感じているだけだろう。そう思えばこの人形に対する不信感を簡単に和らげることができた。
講義室の窓際に私たちは席を取り、かばんから今日受ける授業の教材を簡単にチェックしていると横から楓が妙に浮かれた声で私に話しかけてきた。
「ねね、なんか浮いた話ない?」
「ないわ」
即答してやった。
「つれないなー、講義が始まるまで時間があるんだし、ちょっと話に付き合ってよぉ」
「楓、話には付き合うわ。私も別に会話したくないわけじゃないし。けど浮いた話はむしろ楓のほうにあると思うんだけれど?」
わたし? と面をくらう表情をして考え込んだ後、どこか納得した面持ちを浮かべて返してきた。
「わたしの場合は一種のストーキングに近いけどね、そういえばそんなことあったなぁ。いちいちわたしの受ける講義を取ってもいないのに来たり、わたしが寝ている時に話しかけて迷惑甚だしい野郎が」
「楓……、全部とは言わないけど私の口から一言いいかしら?」
「ん、なんだい? 先に言っておくけど授業が被るのはわたしのせいじゃなくて教授達の良し悪しで決まっているから。あ、それとアリスが眠たい時はむしろ子守唄を歌ってあげるけど」
「やっぱりなんでもないわ。人間の面を被った悪魔め……」
「ひどいなぁ、これでも悪魔というよりは子悪魔をイメージしているんだけどな」
こいつには人の気持ちを理解してあげるという気はないのだろうか。いやむしろそれ以上にどうして私はこのお茶目を新幹線以上の速さで通り越した女の子と友達でいるんだろう。ちょっと不思議に思える。
それはそうと、と前置きを言い出した楓は、チラッと前の席を流し見ていた。
「アリスにその気はなくても、あちらの方はどうやらかなりご熱心のようですよ」
中央の前席に目を移すと、そこには髪の毛ぼさぼさの男の子。はたから見ても少し寒そうに腕を組んで、いかにもそいつは眠そうな目でこちらを見ていた。
あ、前にいる別の男に注意されてやんの。
「ほほぅ、これはこれは……。おじさん知らなかったなぁアリスがあー言ったのが好みだなんて」
「まだ十台の若者がよく言うわ……。勘違いして欲しくないから言うけど、あれは近所に住んでいる人よ。名前なんて知らないわ」
「ふぅん……にしては目がちょっと、ってわかった。冗談だから、笑ってかばんから藁人形と五寸釘を取り出すなって!」
「変な話を振らないで欲しいものね。誰が聴いているかわかったわけじゃないんだし」
そう、変に噂を立てられたら、適当な尾ひれをつけられて面倒なことになりかねない。
「まぁ、それならいいんだけどさ」
肩肘を突いて楓は面白そうに私の顔を覗き見ている。わかってないんだなというような、呆れを混ぜた表情で彼女は小声で私に話しかけてきた。
騒がしい室内には丁度いいほど、周りには聞こえない程度の声だった。
「わかっているとは思うけど、アリスの存在は今や学校中に知られているからな。ちょっと心配だよ」
「あら楓。悪ふざけはもう止めたの?」
「ごまかすなって。これでも遊びと真面目の割り切りはしているつもりだよ」
ばれたか……。楓が真剣になると、口調がやや丁寧になる癖がある。
「この大学に編入してもう一年くらいか。金髪の帰国子女、容姿端麗、寡黙な少女。他の子とはちょっと違う雰囲気を持った女の子。これで目立たない要素があるなら逆に教えて欲しいくらいね」
「そうね……いっそのこと学校に来なければ目立つこともないわ」
「確かに。けどアリスはそんなことしないでしょ」
「する理由がないもの。目立つくらいで学校を休んでいたら一生学校なんて行けないわよ」
「ねぇアリス。あなた異性に告白されたことあるでしょ?」
しつこいなと思いつつ、嘘でもないから沈黙してしまう自分が少し憎たらしかった。
口が開かないことを肯定の意として捕らえた楓も、やっぱりといった表情で軽くため息をつき頭を掻いていた。
「先に言っておくよ。これから夜遅くは一人で出歩かないこと。いいね?」
「らしくないわね楓。理由も何もなく夜に出歩かないでといわれて守る私じゃないわよ」
「だから先に言っておくと言った。聡明なお前のことだからわからないまでも、薄々は知っているだろ? ここ最近多発している通り魔事件」
「つい昨日、バイト先のおばさんにも言われたわ。通り魔が多発しているから早く帰りなさいって」
「夜遅くまでやっているんだっけ。それならバイトの人に感謝したほうがいいよ、アリスは少し自覚がないから」
こらこら、どういう意味でらっしゃいますかねその台詞は。
「別に通り魔を無視しているわけじゃないわよ。この髪じゃやっぱり通りに出ても目立っちゃうし、遅い時間は帽子を被っているようにしているし私なりの防衛方法は考えているつもりだけど?」
「一般論を振り回せばそれで十分かもしれないね」
「楓、随分と言い回しが強いけど、私にもわかるように言ってくれないかしら。一体何をそこまで心配しているの?」
ため息をついて、まぁ別に言いにくいことでもないんだけどという楓の言葉に、少し疑問を抱く。普段ここまで言いたいことを隠すような真似を楓はしない。今もし言うのであれば、それは私にとって―――楓のことだから自分自身にとってかもしれないが―――十分以上の危機が迫ってきていることを伝えたいということなのだろうか。
重苦しそうに口を開いた先に、何が待ち受けているのか。少しの不安が私の心を掴みかけていた。
「そのだな……、どうやらアリスのファンクラブができているみたいなんだよ」
…………はっ?
「ごめんなさい楓、ちょっと風邪気味みたいで耳が遠くなっているみたいだわ。それともこの現実こそが既に幻なのかしら?」
「いやいやアリス、これは本当のことだから。おーい現実に返ってこーい」
「大丈夫よ、現実から目をそむけるなんてことは弱者の言い逃れに過ぎないんですもの。私が逃げるわけないじゃない、ね?」
「ね? とか可愛らしい笑顔向けたところで逃げていたから。うん、こればかりは脅しても無理」
意味がわからない。何故私のファンクラブができているんだろう、そこまで私は何かしただろうか。記憶を手繰って自分が今までやってきたことを思い返すが、そこまで目立つようなことをした記憶なんてこれっぽっちもない。
「自覚、ホントにないんだな……」
「う、うるさいわねっ! 私は何もやっていないわよ。無罪を主張するわ!」
「その容姿で、講義に出て、教師と気が合わなかったら講義をサボって、質問して教師に恥を掻かせてなおその台詞が言えるなら十分有罪だと思うよ」
「あーもうっ、別に私が目立つことは関係ないんでしょ! 通り魔事件とその…ファンクラブがどうかしたっていうの!?」
あぁ、そうだったとニヤついた口元を押さえながら楓は半目でこっちを見ていた。こいつ……、あからさまに話を元に戻してからかったに違いない。
「ファンクラブ全体としては別にどうだっていいんだ。わたしとしては面白いし。いやいや別にアリスが危険になるのが面白いとかそういう意味じゃないから安心しなさい」
手に持った英和辞典を机において、身体を楓に向けた。
「熱狂的なファンってのは、周囲の熱を受けて一緒にハイになるのが通例だ。アイドル歌手にしたって歌を歌って周りがそれに乗って踊れば、自然と周囲も盛り上がっていくだろ?」
「一種の集団心理ね。周りがある特定の行動を起こすと、他者もそれに続いて同じ行動を取るケース。よくある話じゃない」
「そう、よくある話さ。けどその中に、時折ものすごく冷静なやつもいてな」
楓の声に、見えない重圧がかかった。言葉は一瞬周りの声を遮り、あたかも私と楓だけしかいない世界を作り出したかのように思えるほどだ。
「周りに溶け込めるやつは普通のやつ。だが溶け込めないやつは普通じゃない。かの世界的に有名なシンガー、ジョン・レノンはそういった普通じゃないファンに住宅前で殺されたほどだ」
「ふぅん……。それで、楓は通り魔がそのファンクラブの誰かって言いたいの?」
「違うよ。わたしが言いたいのはファンクラブが通り魔に代わる可能性を示唆したいのさ」
いや、もしかすると、
「もう既に通り魔になっているのかもしれないね。人というのは自我を保つのに吐き出し口を必要としている。それは愚痴であったりスポーツであったりと人によって様々だが、仮にアリスを自分のものだけにしたいという欲求を耐えるためにその捌け口を他人に求めているなら、そういった事件に繋がらないわけじゃない」
「いやね、そういった話……」
「勿論仮の話さ。通り魔が近頃多発しているというだけの情報じゃ、同一犯、それとも事件を利用した複数の便乗犯のケースだって考えられる。目立った行動は際立つほど相手をその気にさせやすい。それは今のアリスに当てはまるんだぜ?」
なるほどと相槌を打ちながらも、楓の言っていることももっともだと思う。
事実確認はできていないが、ファンクラブというのは確かに怖い。知らない間に自分の携帯番号を知られていたり、その日の行動、動きに全てチェックをかけている人だっているのだ。迂闊に行動しようものなら、次の日にはその情報が学校全体に知れ渡っている場合もある。
しかも他人が言うことだ。それは噂となって広まり、周囲の目の色を更に強くさせる格好の材料となるだろう。具体的な対策がないというのもあって、迷惑もいいところだ。
「まぁ最後の一言は私を怖がらせるための一言だとして」
「おっ、わたしは真実を述べただけなんだけどなぁ」
「最後だけおちゃらけた言い方してそれは無いわ。けどファンクラブの件は確かに怖いわね、ちょっと行動に気をつけないと……」
そこまで話したところで講義開始のベルが室内に鳴り響いた。前の扉から教材を持った教授と、遅刻寸前の学生がなだれ込んできて息を切らせていた。
「まぁ、そういうことよアリス君。是非とも気をつけたまえ」
「はいはい、ご忠告痛み入るわ」
言葉とともにチョークの削れる音が、普段と変わりない日常を定刻どおりに進めていった。