大学の校舎はかなり年代のきいた風貌で、至るところに亀裂や外壁が剥がれ落ちた部分が目に付く。聞いた話では創業五十年半世紀に亘って地震等の災害から守ってくれたようで、市からも避難場所として指名されているらしい。
 別段普通のコンクリートと変わりはないようだが、設計者がよほど達者なのだろう。見る限り怖いが、朱色に染まった内部の鉄骨はまだまだ現役に見える。これならもう半年はもつかもしれない。
 約半年という時間にも関わらずコンクリートの壁なのは、何度か修復したのだろう。昔は木の板で学校ができていたのに、最近ではコンクリートは勿論、警備体制もかなりのものとなってきている。
 そういった意味では先ほどの教授の言っていることはあながちおかしいわけでもない。こと魔術に関しては全くの無知だったが、科学の進歩というのは昔に比べてその速さも全く異なっているのだから。
 思案し、結果としては講義室をでることになったが、アリスは平然としている。魔術に関して講義を持ち出すのはよほどの変人か、それとも天才か。そのどちらしかいないからだ。それが今回は無知の人間なのだから別に怒るわけでもない。
 今日の講義も失敗か。
 そう思って講義棟から外に出る。冬の寒い空気が容赦なくアリスの肌を直撃するが、意に介した風もなくそのまま外を歩いて食堂へと向かう。
 学校としては珍しく、朝早くから食堂は開いている。ご飯がおいしいというわけではないが、昨日の夜まで実験をしていたため朝ごはんを抜いていたアリスは丁度良いとばかりに歩みを向けていた。
 すると後方からアリスを呼ぶ声が聞こえた。振り返ると自転車を漕ぎながら髪はくしゃくしゃの楓が、手を振りながら近づいてきていた。

「あら楓、おはよう」

 自転車を横に止めて軽く息を吐いた楓に、アリスは普段と変わらない人形のような顔で簡易な挨拶を口にした。

「おぅ、おはよう。その調子だとこれから飯か?」
「えぇ、今朝ちょっとご飯食べそびれちゃって」
「それなら付き合うよ。わたしもちょっと今日遅刻してご飯食べてなくてさ」
「楓、……あなた授業は?」
「遅刻をするなら授業受けないのが私のポリシー。まぁ気にするなって」

 そういって友人のアリスにはにかんだ顔を見せる。アリスも少し困った顔を浮かべたがそれもつかの間、いつもの表情に戻り自転車に鍵をかけている楓の後姿を待った。
 楓は学校の中でかなり浮いた存在だった。授業は中々でないし、たまに出ると退屈といわんばかりに寝る始末、授業中に教授が彼女を起こして質問をぶつけるとスラスラと答えてまた寝る。こんなことが頻繁にある。
 それを見て周りの学生もおかしな人と認識したのだろう。彼女が来た授業にはほとんど視線を向けることもなく、教授自身もほとんど彼女を相手にするようなことはなかった。
 彼女とアリスが知り合ったのは生物学の講義最中、DNAの配列で教授がミスしたところを指摘したアリスが疑問にしたところ、質問を楓が答えたことからだ。まるで完璧な答えを彼女は紡ぎ、なおも聞こうとしたアリスの話を「聞きたければ後で私のところにきな」と一蹴してくれたことから始まる。
 生物学のほかにも彼女との縁は余りきれることはなかったようで、アリスが出ているその他の講義にも彼女はよく出席していたりした。それが少女を目当てに出てくるということに気がつくのは、それからもっと先の話になる。

「さっ、行こう。もう眠くて眠くて朝の珈琲でも飲んでないと今日一日が始まらないよ」
「楓、あなたの一日は授業を目の前にして珈琲を飲まないと始まらないのかしら?」
「知らないのアリス? 人間は起きてから約三時間ほど頭が働かず、活動を始めるのはそれからなんだよ。だから私はこうして珈琲を飲んでだな……」
「はいはい、あなたの眠りをどうこう言う気はないけど、睡眠学について語られても私はそれ以上にまずは食堂でゆっくりしたいわ」
「ご飯魔人め」
「何か言った?」
「んーなにも? ほらさっさと行こう。朝は人がいないんだし、ゆっくりできる時間は有効に使わないと」

 そういって楓はアリスの手を引っ張り食堂に連れて行った。


 食堂に着くまでには木に囲まれた広場があり、昼食時になるとよくそこでお昼を満喫する学生で一杯になったりする。自然の場所に足を向けたくなるのは、人間も動物もどうやら同じのようだ。
 中央付近に大きな枯れ木がある。秋も終わりそろそろ冬が近いせいだろう、すっかりと葉は枯れ落ち冬を越す準備をしている。
 木を尻目に食堂前にくるとふわりと暖かい空気が外まで出てきている。大方お湯を温めているのだろう、この時期になると、麺類などの注文が多くなり、湯を頻繁に取り替えるため代えのお湯を用意するためだったりする。
 引かれる手は食堂の中に入り、テレビの見える中央付近に陣取る。荷物を置いてから次に移るまでの行動の手際よさいい行動に少し呆れを覚えるが、普段の楓からしてこれくらいは常套手段だ。荷物を置き席を確保するや、学生用の小テーブルを持ち食堂の奥にいる人に声をかけた。

「おばちゃーん、注文いいかい?」
「おっ、楓ちゃん今日は早いねぇ、授業はもう終わったのかぃ?」

 どうやらここでも楓の有名ぶりは途絶えないらしい。

「おばちゃん、授業は受けることに意義なんてないんだよ。問題は自分が今何をしたいかさ」
「それをいうなら学校来る意味なんてあるのかぃ?」
「あるさ。例えば学校に来なければこうしてアリスと知り合うこともなかったし。なっアリス?」
「知らないわよ。私に話を振らないで」
「はははっ、こりゃ手厳しい子だねぇ」
「でしょ? でもまーこれがアリスのいいところでもあるんだけどさ」

 一体何がいいところなんだか甚だ疑問に思うが、私はそれを口にしなかった。口にしても意味がない、というより言ったところでたいした返答を期待できないからだ。
 どうやら楓は日替わりのご飯を頼むらしい。私もそれを頼もうと思ったが、少し癪だったので麺類を頼むことにした。それをみて楓が含み笑いを見せるが、気付いていないフリをしておく。

「それよりアリスがこの時間外にいるなんて、また講義でやらかしたか?」

 やらかしたというのはさっきの事だ。

「別に、講義で質問したら私の知りたいことはやらないって言ったんで、抜けただけよ」
「誰の講義?」
「科学概論の太田教授」
「あーあー、あのおっさんじゃダメダメ。何事も科学にかこつけて、内容なんて陳腐も極まりない話よ。アリスにゃ合わないね」

 はいよっ、と声を届けてきたのは白衣を着た先ほどのおばさんだ。テーブルの上に肌色の麺と麻婆豆腐が乗っかっているそれを持ちながら、荷物の置かれたテーブルまで持っていく。楓のほうも来た様で、片手でテーブルを持ちながらコップに水を汲んでいる辺り要領が悪いというか何と言うか。

「ご飯を置いてから汲みに来ればいいのに」
「それじゃ訓練にならないのよー。こうして片手で重いものを持ちながら、バランスよく水を汲む。背に走る緊迫感と微妙なバランス加減がまたいい刺激になってねぇ」
「わからないわ、そういうの」

 楓が汲み終わったのを見て、私もコップを手に取り水を汲み始めた。

「やってみるといいよ。何もない普段の一日でも、そうやってくだらないことをすると代わり映えするものだよ」
「ご飯を落としたらどうするの」
「それはその時に考える」
「行き当たりばったりね、でもそれが楓らしいわ」
「ありがと、なんとなく馬鹿にされた風だけど自分でも自覚してるよ」

 席に戻るとカバンにかかっていた人形が私たちを迎えてくれた。
 汚れている上海人形、携帯のストラップにしては明らかに大きいそれは、随分と昔に自分が作った初めての人形だったりもする。
 僅かに目を細めてそれを見つめていると、席に着いた楓が人形を手に取りながら私に尋ねだした。

「随分と年季の入っている人形ね……」
「……そうね、随分と前から使っているから」

 答えるべきか少し悩むが、さし当たって黙秘することでもないので答えておいた。

「へぇ…、これ手作りなんだ。名前なんていうの?」
「名前付けていると思う?」
「そりゃね、アリスだから」
「どーゆー意味かしらね……」

 作った怒り顔で楓を窘めようとするが、とうの楓は気にした風もなく「名前は?」と聞いてくる。そんな彼女を見て私もなんだか馬鹿らしくなり笑ってしまうと、彼女もつられて笑ってくれた。

「名前はないわ。ただ昔見た本でそれと同じような人形が合ったから、真似て作っただけ。それ以来その人形を呼ぶときはいつも「上海人形」って呼んでいるわ」

 名もない上海人形、白と紺の服を生地を切った後縫い合わせて、頭には少し大きめの赤いリボン。何度も練習して、指に何度も針を刺したりもしたが、できたころには小学生も卒業した頃だったかもしれない。
 それ以来カバンにはいつも人形をぶら下げて、人形に解れができるたびに縫い合わせていた。そう考えれば昔からあれには思い入れがあったのかもしれないなぁと今更ながらに振り返ってみる。

「へぇ……、アリスにもそんな頃があったんだなぁ……」

 唇の左側だけを吊り上げて、やや悪戯な目を私に送りながら楓はその人形に語り始めた。

「おい上海人形、よかったな。ご主人様はお前を大事にしてくれているとさ。お前もご主人様に大事にされるよう日々努力しないとな」
「止めてくれないかしら楓。人に見られたら仲間だと思われるわ」
「あれ? わたしとアリスは仲間じゃなかったのか、上海なにか言ってやってくれよー、お前のご主人は人に冷たいってさー」
「そうかしら、到って普通のリアクションだと思うわ」

 そういい残して楓の手から上海人形を鷲掴みに持ち上げる、やや名残を見せた楓だったか、私の目を見てようやく諦めたようだ。
 上海人形をカバンに付けると同時に私は目の前にある麺をみて焦った。
 伸びてないかしら?

「伸びてないと思うから早く食べたほうがいいよ」
「誰のせいかしらね……」

 そういう楓は既に半分ほどご飯を食べきっている。あれほどまでに手を人形に向けていたというのに、どうやったらここまで早くご飯を食べられるのか教えて欲しいものだ。
 ズズッと啜りながらも、露が飛ばないように啜る。

「初めて会った時と変わらないね、その食べ方」
「そうかしら? 私があなたと会ったのは講義中だったはずだけど」
「まぁ、実際話しかけたのはあの時だったけどね。それより前にこの食堂で会っていたよ、勿論わたしの一方的な目撃だが」

 その時にどうやら私に話しかけようと決心したようだ。

「なんで食事の食べ方が私に話しかける決心をつけたのよ」
「……その時のアリス、とても退屈してそうな表情してたよ」
「えっ……?」

 急激な彼女の声の変調に、私の頭が着いていけてなかった。

「授業を見ても当たり前、空を見ても当たり前、ひょっとしたらこの子は全てをわかっていて、その全てに退屈してるんじゃないか。私にはそんな風に見えたよ。だから思ったんだ、こんなんじゃきっとダメになる。そうなる前になんとかしてあの子を退屈から救い上げないとってさ……」
「楓……」

 肩を震わせながら、楓は何かを耐えているように俯いている。その時の心境はどうあれ、彼女は結果として私を助けてくれるように遠まわしに努力してくれたのだろう。そんな楓に、私はかける言葉を探していた。

「その、楓…私はね……」
「そういうわけだから朝飯の代金はありす払っといてちょうだい」
「えっ? あ、ちょ……」
「わたしはもう一眠りしてくるから、あーお礼はいらないから。むしろ代金払ってくれるなんて、いやーわたしは良い友をもったものだよ。ははははははっ」

 見ると目の前には空になった皿が重ねて置かれている。それを軽々と持ち上げて楓は席を立ち、未だ呆然としている私の肩を一つ叩いてそのまま足早に去っていった。
 残されたのは半分ほど残ったラーメンの入った器と、お金も払わずに去っていった女へ怨恨の篭った奇声を発した私だけだった。


戻られます? 進みます?