紫市の冬は、濃霧がかかっている。県の端っことはいえ、都会の一部であるここでは唯一の霧が出る町として一時期テレビにも特集されたほどだ。
朝が早いと特に霧が濃く、十メートル先の道路標識が見えるかどうかというあたり、本当に都会かどうかと聞かれれば唸ってしまうだろう。だがかといって田舎かといわれれば、そうでもないと言える。
道路部分は舗装も最近は進み平坦な道が続くが、裏道に入れば古めかしい石畳の緩やかな坂。脇にはいつの時代に建てられたか、木の板で作られた塀や蔵も見える。それらは全て酒蔵であったり、あるいは個人の趣味による造りなのかもしれない。
つまりは田舎というより古風な建物が多いといったところか。木の塀の先には大きな桜の木があったりして、これが春になると淡い桃色の花びらが、学生達を歓迎するようにキレイな花を魅せてくれる。
こういったときは私も自転車を降りて、ウォークマンを止める。そうして桜を下から見上げていると、青空一杯に映える桜がとてもよく似合い、心豊かな気持ちにさせてくれるからだ。
そんな風情溢れる場所も今は冬。近所に住んでいる人たちも年越しに向けて掃除を初め、桜の木は寒くなるこれからの時期に身を細めてながら春を待っているようだ。それもちょっとした風情かなと思いながら坂を下ると、近所に住むおじさんおばさんたちが声をかけてくれた。
おはよう、おはよう。そんなやり取りを簡単に交わすと、今度は右に見える小学生の列。集団登校は今の時期珍しいかもしれないが、こういった地味な行動が犯罪に繋がる可能性を下げているのかもしれない。そう思うと、意外とこの町を統治している人はなかなか賢いのだろうか。
「アリスお姉ちゃん、おはよーございます!」
その中の一人が元気よく手を振って私に挨拶をした。そばかすがチャームポイントの女の子で、少し恥ずかしがっていたが、勇気を出して言うと周りの子供たちもそれに倣って「おはようございます」と言ってくれた。嬉しいような恥ずかしいような、とりあえず私も手を振っておはようと声をかけておいた。
坂を下ると今度は川にぶつかる。下水の水が一時期この川に流れ込んで異臭がするという問題が起こったが、最近ではそういった話もトンと聞かない。多分業者の方たちが下水管か何かを設けたのだろう、私の鼻にも臭い印象は感じないし、それどころか最近は川底が見えているほどだ。案外きれいになってきているのかもしれない。
以前水に含まれる物質を微生物を増やすことで、川をキレイにすることができるという話をきいたことがある。多分それに近いことをやって、川をキレイにしたのだろう。そうすれば川には生き物が戻ってくるし、子供も川で遊ぶことができる。大人も童心に返って、子供と川で遊べる日が来るのも近いかもしれないなどと、学生にしては老けた考えだろうか。
というのも、最近の子供は近代化が進むにつれて家に引きこもることが多くなってきた。運動をしない子供も増えてきて、昨今ではまともにジャンプもできないという事例も報告されている。社会的な問題は、大人たち、もしくは私たちの世代で、ゲームをやる以上に外で遊ぶ楽しさを教えないといけないんじゃないだろうか、そんな風に思うこともしばしばだ。
川に沿いながら自転車を漕いでいると、今度は馴染みのある声が後ろから飛んできた。楓だ。大柄な―――といっては失礼かもしれないが―――彼女には似合うマウンテンバイクが、猛スピードで私の横につけたのは何かの嫌がらせだろうか。ふとそんな意地悪な考えが私の頭に過っていった。
「おはよ、アリス」
「おはよう楓。寒くないの?」
そう答えたのにもきちんと理由があって、彼女の着ている胸元の開いたキャミにグレーのシャツを羽織っただけ、ジーンズはいいとしても上着はもう極めてセクシーを通りこして馬鹿の領域かもしれない。
「こんなことを言うのもなんだけど、あなた馬鹿よね?」
「む、心外だな。マウンテンバイクでスピードを出すと風は確かに寒いが、汗をかく分厚着をすると後で無茶苦茶寒くなるんだぞ? だから自転車に乗っている時、スピードを出しているときは簡単な服装でいて、学校に着いたら汗を拭いて厚着する。基本だ」
「基本じゃないわよ、絶対、いえもし学生が百人いたらそのほとんどがあなたを馬鹿と罵るでしょうね」
「少ないけど罵らないやつもいるわけか」
「えぇ、あなたのことだけど」
「それほとんどっていわないよっ!」
なにを今更と思いつつも、ふと楓の姿に一抹の疑問が浮かんできた。あれ? でもまさかそんな……という疑問をよそに、自転車の速度を緩めていくと、楓もその速度に合わせてくれているのだろう、平衡してスピードが落ちていきついには止まってしまった。
「どうしたー? なんか腹の調子でも悪いの?」
「ちがうわよ。楓、あなた授業のノートとか教科書持ってきたわよね?」
「はぁ? 授業行くのにそれ忘れる馬鹿がどこにいるんだ。少なくともちゃんとわたしは持ってきているよ」
ほらっ、と背負っていたかばんを私の前に見せつけ、中を広げる。確かにそこには彼女が受けると思われる授業の教材が詰まっており、そのほとんどがどういうわけか私と同じ授業だったりもするんだけど、それはこの際置いておこう。
疑問がやや確信に変わりつつも、まだ数パーセントの可能性を信じて私は楓にこう聞いてみた。
「楓、その……とても言いづらいんだけどね。いや私にとっては別にどうでもいいんだけど」
「回りくどいな、ぱっぱと言ってみ。怒らないと思うから」
「そのね、……厚着する服はどうした?」
自分の言葉遣いが変わったのは決して怒っているわけだからじゃない。むしろ呆れの部分を通り越して、笑いが出てきてしまうほどの領域に私の思考は達してしまっているのかもしれない。一瞬固まった楓の表情は、しかしすぐにもとの顔に戻り、顔を抑えながら笑い出した。
「いやいやアリス、落ち着いて聞いて欲しい。これから私が言うのは決してミスじゃない。むしろこの世界にちょっと刺激を求めたわたしのお茶目な出来心がそうしろといって動かした、奇跡というものだよ」
「うん、わかったわ。それで、厚着の服はどこにあるのかしら?」
勤めて、きれいな笑顔をイメージして彼女にぶつけてみる。
「それなんだがな。わたしの言うところの厚着というのはシャツのボタンを閉めることであって、なにこうすれば北風を防げるし荷物も増えない一石二鳥の効果がのり更に――――」
「忘れたのね?」
「うん、ごめん」
即答だった。
「えぇい面倒のかかる楓ね!」
「まて、楓という女の子は世界に数多く存在するが、わたしはわたしでしかない。つまりこの場合「面倒のかかる楓」という言い方は不適切であり、「面倒のかかる馬鹿ね」と言ったほうが全国の楓さんに失礼じゃないとわたしは主張したいんだが、その辺どうだろうか解説のアリスさん?」
「とりあえずあなたの頭を川の水で冷やした後にそこに歩いていた小学生と一緒に小学校に通ってこいと問い詰めたいのですがいいですか、司会の楓さん?」
「却下です。自分でわかっていることですから」
「わかっているならいちいち私に聞かないでよっ!」
とりあえず目の前にいる馬鹿でアホでどうしようもなくお茶目を通り越した友人を私が放って置けるはずもなく、首根っこを掴みながら「うわーんアリスが苛めるよー」という悪ふざけをしているこの女に服を貸してやるかという、自分でも嫌になるこの性格に呆れつつも。
それでもいっか、という私の心にちょっとの満足感を覚えて、再びわたしは家路までの道を逆走することになる。
時折彼女のしていることが理解できない時がある。
頭脳明晰、運動神経そこそこに容姿も悪くない。それなのに楓のこういった少し抜けているところが、私にとって酷く不思議だった。
ひょっとしたらわざとやっているんじゃないだろうか? そんなことも考えてみたけれど、楓の表情をどう読み取ってもそれが故意にやっているようには感じられず、自然とやってしまった感が汲み取れる。
「ほら、楓のサイズに合うかわからないけど、何も無いよりはましでしょ?」
天然かな、なんて思ったこともある。結構いい加減なところもあるし、適当にやっているツケがここにきて出ているんじゃないか。なんていう風に思ったのは、随分前からだった。
けど、どれも私の想像していたこととは違って、私が楓に聞いたときの答えはもっと簡潔なものだった。
「サンキュ。こういうのもなんだけど、恩に着るぜアリス」
「はぁ、服を忘れる人がいるなんて、世界中探しても楓くらいかもしれないわね」
周りが見ているわたしは、わたしじゃない。本当のわたしは、今アリスが見ているものだと思うよ。なんて言ってくれた。
……人は誰しも仮面をつけている。本来の自分を仮面で隠し、偽りの自分を演じるそれを心理学上ではペルソナと呼ぶ。
彼女が普段グータラしていても、先生に言われたことはきちんと答えるしテストでもきちんとした成績を残せるのは、ペルソナと本性の境目がそこに映し出されているからかもしれない。そう考えると直らない遅刻の話や彼女の奇抜な行動は、本来の彼女がそこに出てきたからなのだろう。
つまり彼女の本当の性格は、普段の態度に出ない。出るのは気を許した友人か、親族ということなのだろう。
「恩ていうのはな、服の中に着るもんなんだ。そうすることで恩は暖められて、いずれは恩の持ち主のところに大きくなって帰る。そう考えると、恩を渡すのも悪くない話だろ?」
「なんていうかね、楓の言っていることは遠まわしに私に対して恩を売りつけている風に聞こえるわ。気のせいかしら?」
「気のせい気のせい。ありがたく恩を暖めさせていただきますって」
自惚れてもいいのかな、って時たま感じる。周りから白い目で見られている私でも、楓と友達になれたんだから。
けど、それが本当に友達なんだろうかとも疑問に思い、不安に駆られることもしばしばあった。そういうこともあってか、初めて会った数日間はまともに楓の目も見れずにいた。
今でもその癖は治っていない。彼女の目を見ると不安になり、それ以上にその目が友達として見てくれているのかが怖くて、合わせる事ができないでいたからだ。
それだからだろうか、いつも彼女には普通以上に優しく接してしまうし、時には自分でもお節介なんじゃないかと思うほどに世話をかけてしまう。それがお互いにとってプラスなのか、それともマイナスなのかは私たちにしかわからない。
ううん、正直マイナスだろう。友達とはいえ踏み込んでいいことと悪いことがある。区切りをつけないと、いずれはきっと辛い思いをするだろうし、お互いの関係もよくない方向に行きかねない。自重しないと。
「さてっと、そろそろ行かないと遅刻になりかねないか。ちょっと急ごう」
「はいはい、誰のせいでこうなったかは言いませんけどね。もう少し楓も計画性を持って行動をとって欲しいわ」
「んー、計画なんてのは行動を起こす予定でしかないわけで。計画通りに物事を進めていったら計画通りの事しか起こらない。それならいっそ計画そのものをぶち壊していくってのも悪くないんじゃない?」
「あらー楓、私の言ったことまるで反省していないみたいね?」
「ちょ、冗談だって。だからそんな怖い笑顔を向けるなよ、な!」
そういって彼女はそそくさと自転車にまたがり、急いで逃げようとする。
まぁ、難しいことは今は考えなくてもいいよね。彼女の言うように、今だけは計画性も何もなく、ただ楽しんでいればいいと思えるのだから。