今夜の月も、普段と変わりなくキレイだった。
まぁるく、黄色で、明るく、澄んだ空の上から僕らをいつも照らしている。
舗装された地面の欠片を蹴飛ばして、想いを馳せる。……そう、確か十年前と変わらない。
中学生の頃。
自分は聡いほうじゃないと思う。それなりにしか勉強も運動もできないし、友達付き合いも多いほうではないから多分世間で言えば引きこもりの部類だったはずだ。
何に使うかもわからない授業、嫌なことがあった一日、全部がつまらなく感じると決まってヒロは空を見上げていた。
眩しいほどの光と、青と黒の世界が広がる海原。全てが見ていて愛しかった。
あの頃もこうして地面の欠片を蹴飛ばして、ただなんとなく空を見上げてなんとなく息を吐いて。
無駄に、空に光っている星の数を数え始めた。
当然のように光っている数は無数で、当たり前のように数えるのを止めてしまう自分の意思にちょっと嫌気が差したけど、それも愛しいほどにただひたすら空を見ていた。
空の先には何があるんだろう。隕石群、惑星、月、全てがリアルで全てが幻想的で。けどそれらは全て人間達が進ませた科学の最先端でいとも普通にいくことができて。
……空の先に、何があるんだろう。
そう、あの頃もそう呟いていた。そして空は応えてくれた。
「空の先にはね、空よりもっと広い空があるんだよ」
視界がゆっくりと空から離れて、右を向く。
ボロボロに崩れている煉瓦の先に見えるのは住宅のネオン、車のテールランプ。
手前に見えるのは深い海のような場所で、その水面に誰かが立っている。
「誰……?」
そういってヒロは誰かに尋ねた。海を怖がるように、だけど本当はその見えない誰かが怖くて、ただ近寄れなくて声をかけることしかできなかった。
「私は、私よ。あなたはあなたでしょ?」
「うん、だけど僕は君を知らない。知る必要はないかもしれないけど、知ったほうが話しやすいから」
はっと、誰かが息を呑んだ。
「……そうかな。うん、そうだ。お互い知る必要があるのかもしれないね」
でもその前に、誰かの影が海を見下ろして、すぐに空を見上げた。
「空の先にはね、まだ私たちが見たことも無い空が広がっているの」
独り言のように呟いているけど、何故か少女のような声は笑っているように聞こえた。
いや、事実微笑んでいるのかもしれない。これだけのキレイな空を見れるんだから、一人くらい笑っていても別に不思議じゃないと思う。
「黒くて、眩しくて、でも星がたくさん輝いていて。月には兎がお餅つきをしていて」
そう、あの頃と変わらない。
「きっとそれは私たちに月が見せてくれる僅かばかりの幻想で――――」
「きっとそれは僕達に月が教えてくれる僅かばかりの現実、かな」
ふふっと、小さく誰かが声を漏らした。
「変わらないね、私たち」
「うん、変わらないね」
「まだ空を見上げていたの?」
「見上げていたよ。まだこの世界のどこかに意味を見出せないでいるから」
「……そっか、お互い時間は止まったままなんだね」
声の色に、少し寂しさが混じった。
踏みしめる靴底から、ジャリという音。
「もう結構涼しいのに、まだあなたはそこにいるの?」
「いるよ。だってここは私たちのお母さんがいる場所だもの」
「お母さん、か。いいねそれ」
起こった声色で誰かが「もうっ」というけど、もう全然怖くなかった。だってなんだか可笑しくて、影が踊る仕草や何から全部が怖さをどこかへ飛ばしてしまったみたいで。
ささやくように風が凪ぐと、水面に波紋が広がった。それにのって誰かも気持ち良さそうに揺れ動いた。
「こうしてね、風を感じていると私もお母さんと一緒になれる気がするの」
「うん。なんていうか、一体化するっていうのかな」
「そうそう!」
同じ感覚を嬉しそうに目の前の誰かが言ってくれた。
「自然と一緒になれた感じがして、私が私じゃないような気になれるんだよね」
「うんうん。それでよく知らない間に時間が過ぎていたりね、授業とか受けているとよくそうなってた」
「あはははっ」
楽しそうに、おかしさを堪えきれないといった感じで誰かがお腹をかかえている。そのちょっとした仕草も、ヒロの目には儚いものに見えていた。
「ねぇ、名無しさん」
「……そういえばお互い名乗っていなかったもんね。なに?」
気にした風もなくヒロも誰かも、ただ会話をしている。
「海を感じるって、どんな感じ?」
そうだね、と一言呟いて、
「言葉じゃ表せないと思うよ」
「さっき、お母さんと一緒になれるっていうのとはやっぱり違うんだ」
小さく、誰かの顔が縦に揺れた。
「ねぇ、名無しさん」
「ん、なに?」
「空を感じるって、どんな感じ?」
ヒロも理解した。
空。
それを言葉で表現することなんてできるはずが無いじゃないか。あんなにも広い場所を僕が出す言葉でも、僕の感じでしかないんだから。
「……うん、わからないよ」
「そっか」
残念そうな声なのに、上擦っているのは何故だろう。
「それじゃあ、名無しさん」
好きな人に告白するのにもこんな緊張はしないと思う。
「あなたのいる海を、一緒に感じてもいいかな」
「―――私のいる、海を?」
誰かの影が、動きを止めた。
それが妙に自分を避けているように感じて、ヒロは言葉を早めてしまう。
「あっ、いやその、空ばかり見ていたから、海とか山とかってどういう風に感じることができるのかなって。決して名無しさんの場所を侵害するとかそういうことを僕は言いたいんじゃなくてあの、その……」
「――――」
あぁもう、馬鹿丸出しじゃないか僕は!
どうしてこういつも気持ちが上がってしまうんだろうか。
「だ、だから別に名無しさんが嫌だとか思うんであれば別にいいんだ。僕もそんな、えぇと……なんていえばいいのかな。そ、そう! きっと一緒にいて楽しくない人といても感じることはできないと思うから。だからっ」
「…………ふ」
「えっ?」
「ふふふふ、あははははっ」
あ、あれ? 笑われた……。
はは、そうだよね。滑稽に見えるのも仕方ないよね。うまく喋れないし何を必死になっているかもなんか変だし。
「いいよ。一緒に海を感じよう」
「えっ、い、いいの?」
「うん。きっとあなたとなら楽しいと思うし、それに一人は少し寂しかったしね」
ドクン、ドクン。
心臓が少し高鳴った。
「けど、条件が一つ」
「な、何?」
「ほら、最初に言ったじゃない。お互いを知らないと話しにくいし、分かり合えないだろうから」
あ、と思った。つまりそれは、
「名前」
「そうっ!」
砂利道を渡り歩いて近づく。海が近づいて、ゆらりと波打っているのがわかる。
淡い黄緑色が小さく輝く。無数に存在する光は、星を連想させた。
「僕は、ヒロ」
もっと近づくと風が強く吹いた。光が風に乗って空に舞い、風が止むと同時にまた海に戻っていく。
まるで星が海に落ちていくような感覚。
「ヒロ君」
その世界にただ一人、その少女がいた。半身を海に浸かり空を見上げ、ただ静かに微笑んでいた。
本当に、その少女はお母さんのような雰囲気を持っていた。
「私は――――」
海を感じた、ある一日だった。
未完