バイト先から家までの距離はそうたいして無い。自転車を使えば時間にして約十分、遠からず、歩くにしても丁度いいくらいの距離だ。
 アパートの入り口には古めかしいランプが灯っている。時折点滅するそれは、大家さんの趣味で蝋燭を使用しているらしい。蝋燭は夜の六時から十時までの約四時間ずっと灯している。点滅するように見えるのは、風除けのガラスの隙間から風が進入してくることによってだ。
 いつ見てもこの蝋燭は嫌な雰囲気出すわね…。
 初めここに来たときは、とにかくお化け屋敷みたいな印象が強かった。現代はエジソンが豆電球の一つも開発されているというのに、このアパートは門だけ未だに蝋燭を使用しているのだから。いつの時代の取り残しだろうか。
 蝋燭は時間通りにもう消えかかっている。明かりが消えるとこの辺りは街灯も少なく、周囲の家の漏れる光だけが道を照らす頼りになっているといっても過言ではない。
 自転車のスタンドを立てて、籠から荷物を引っ張り出し自宅のドアへ徒歩を進める。冬になって、秋には鈴虫の鳴き声がうるさいほどだったのにここ最近ではそれしらも聞こえなくなったのが少し悲しかった。
 家に入ると普段とさして変わらない風景だ。山積みにされた本の数々に意図的に避けられた道。なんというか自分にとって便利この上ない配置だ。
 荷物を適当に置きコタツに潜り込む。スイッチを入れてジッとしている間、テレビをつけながら蜜柑を食べようとテーブルの上を探すが、見当たらないのは何故だろう。
 あ、そうだった…蜜柑ジュースを造ろうと思って台所に置いたままだったか。
 思い当たり折角入ったコタツから後ろ髪引かれつつも抜け出す。年甲斐もなく「いよっと…」という声を出してしまうが、きっとそれは疲れているからだと思っておきたい。いやそうだと思っておく。むしろそうだ。
 赤い網に包まっている蜜柑のラベルには「特選、幻想卿取れたての蜜柑! 一個三十円」と書かれている。一体この都会のどこに幻想卿があるのか、是非とも教えて欲しいものだ。
 蜜柑を片手にコタツに再び入り込むと、少し暖かい空気が溜まっていた。この空気がいいのよねぇと年寄りくさいことを言うが、コタツのよさをわかっている人はきっと誰もが言いたくなる台詞だ。
 テレビをつける。丁度ついた場面には最近駆け出しのお笑いタレントが、相方のスキンヘッドにコブラツイストをかけているところだった。

「……ははは、おもしろーい」

 プチンッ。ノイズとともにテレビ画面が黒く染まる。
 一体なにが面白くて、私は一体誰と会話しているのだろう。疑問が疑問を呼ぶが、一人暮らしになると自然と独り言が多くなる。仕方のないことだ。
 もう一度テレビをつけて、今度は音楽番組を聴く。ウェーブのかかった黒髪の女性が、脚を組んでギターを弾きながら、バラードを奏でているところだった。
 うぁーとテーブルに頬をつける。髪が張り付こうがこの際関係ない、コタツの暖かさに加えて静かな曲が流れているんだ。神様もこれくらいは平等に見てくれるさ。
 だらけるということは人生で最高の幸せである。どこかの誰かがそんなことを世に残して言ったが、私にはだらけるより常日頃から好きなことに没頭していたほうが幸せ度は高いと思う。
 でもたまにはこんな風にだらけるのもいっかぁ……。
 眠い頭を更に深い場所に送り込もうとする悪魔と、いけません早く起きるのですよと言う天使が私の耳の前で言い争っている。うるさいなぁと内心思うが、どちらも相打ちで倒れたのを見て苦笑しながら顔を上げた。
 ブラウン管の向こうには、よく見る黒人さんのソロバラードだ。どうも今日は眠くなる特集がテレビのうりらしい。
 ぽぇっとあごはつけたまま手探りで蜜柑を探す。確か左のほうにあったと思ったんだけど、えーっとどこ言ったかなぁ…なんて思っていると右の腰に変な違和感を感じた。
 なんだろ?
 そう思って見ると、そこにはオレンジ色の丸い蜜柑が、所在無げに転がっていた。
 テーブルから落ちたのだろうか。手にとって持てば普通の蜜柑で、先ほど読んだラベルが蜜柑の皮に張られていた。
 とすると、台所から戻ってくる時に一個落としてしまったのか。そうであれば網に穴が開いていることになる。あったっけかなぁ…とか思いつつも、それでもいっかぁ…とか思った私の思考と平和ボケに乾杯の蜜柑を剥き始めた。
 一つ、口に含む。なんともいえない甘さが口の中で狂喜乱舞し、プチプチというみかんの粒々がまるでナイル川のように広大で優雅な自然を想い奮わせる。そう、まるで夏の空に輝くミルキーロード。織姫と彦星を挟む銀河の星々がこの蜜柑の中に詰まっているのだ。

「なんてどっかの料理マンガみたく解説してもねぇ……」

 こっ、これはぁぁぁ!! という大げさな驚きをを通り越して「叫びすぎだよっ!」というツッコミを欲するキャラよろしく、自室の隣、実験室を見る。昨日―――今朝ともいう―――途中で止めてしまい、三脚や試験管の周り全てが時間を停止しているかのような、そんな錯覚を受けた。
 そういえばもう少しで実験結果が出るんだっけ。
 実験は溶液中の電子を自在に動かせるかどうかを調べているものだ。実験式を立てたときは、理論上可能であることを示していたが、いざ実験となると周りの空気中の電子すらも影響を与えてしまうので、慎重に慎重を重ねながらの実験となっている。
 本来実験施設がもう少し整っていればきちんとした結果が出るのだろうが、現状では空気を遮断する箱と自作X線装置だけが唯一の揃った材料である。

「さてっと……」

 蜜柑をもう一つ口に入れて、コタツから抜け出す。脚が冷たい空気に触れて寒く感じるが、それも仕方ない。実験中は空気調節のためにエアコンをつけるわけにもいかないのだ。
 がんばりますか。そういって実験室に入り込む。今日の実験も、また夜遅くまでかかりそうだ。


戻られます? 進みます?