――――座禅。

 身体を調え、呼吸を調え、心を調える。住職や剣士などがよくする心構えのようなものだ。
 身体を調えることで自身をイメージし、呼吸を調えることで肉体を統一させ、心を調えることで
迷いを無くす。
 こと真剣勝負であれば、お互いの力が拮抗されたものならば三要素は大きく勝敗に関わってくる。
 故に頂点に近い剣士であればあるほど、禅を組む。ある意味無我の境地を彼らは常に備えようとするのだ。
 
 柳桐寺では30人ほどの尼僧がいる。彼らはみな早朝とあらばまずは座禅、経を聴きながら心身を
磨き、清めている。
 天気のいい朝、春真っ盛りの境内の奥。二人はそこで禅を組んでいた。
 尼僧でない彼らは決して輪の中に入れるものではない。故に日のあたらない壁際で、延々と続く経に
耳を傾けている。
 いや、その経は彼らにとって一瞬かもしれない。
 時間というのは自身が興味を向ければ向けるほど、つまり集中できれば全く感じることが出来ない。
 それゆえに彼女達が無心であり、そして意識を何かに集中させているのであれば、それはまさに一瞬。
決して大げさな喩えではないだろう。

 ホトトギスの鳴く声。その声につられてか、いつしか剣士だったころの自分を、一人は思い出す。
 セピアの色をした風景、その中でぶっきらぼうな彼女と、彼女の横で剣を振っている男の子が笑っている。
 繰り返しと巻き戻しの壊れたビデオのようにただひたすら二人は剣を振っていた。時には注意をし、
そして時には笑いあい剣を向け合い戦い合う。

 これはまだ彼女の駆け出しの話、彼女が剣一筋で日本一を目指していたころの話。

 

 

 

 

―――――――――――― Escape if you can get off 閑話休題 藤村 大河の朝 ――――――――――

 

 

 

 

 少女の朝はいつも味気ないものだった。
 朝七時、めざましの時計がうるさく鳴り響き、眠気と格闘するわたしの頭に強引に入ってくる。
 少女は三秒で眠気をノックアウトさせ、起床。カーテンを開けて朝日を浴びる。
 
 ……おはようございます。

 誰にともなくそう呟く。
 少女の部屋はいたって簡素だ。六畳の敷居に布団が一枚。勉強机にわずかな教材。女の子らしさが
そこにはなかった。
 少女もそのことはわかっていた。普通の女の子であれば人形の一つあってもおかしくない。
 しかしだからといって少女らしくするのも抵抗があった。
 お家柄といえば変かもしれない。だが世間の目から見て、何かおかしいことをしたら親に迷惑が
いくということは、いつかに教えられたことだった。

 親に剣を勧められて初めて握ったのは光に反射して輝く本物の剣だった。
振り回してはいけないと注意されたものの、その輝きに心奪われるのにさして時間はかからなかった。
 雅な剣線、目に残る残像、その危うさ凄み全部が彼女の心をわしづかみにしたのだ。
 その視線を察してか、親の反応は嬉々としたものだった。
 今の時代は真剣ではないこと、竹刀という剣を使って戦うこと、竹刀は道場で振ることができること。
 この日、少女は初めて親におねだりをした。

 初めて通った道場で彼女は木の剣と出会う。それは全く輝く事はなく、ただズシリとした重みと歪な
硬さがあっただけの、ただの木にしか本人には見ることが出来なかった。
 光らない剣。それは彼女の心になにをもたらしたのかは今となってはわからない。だがもらったときの
彼女の顔はただ、一言をあらわしていた。

 これが剣なのか―――――、と。

 はじめは竹刀を振ることすらできなかった。一日目に100回、それが彼女の限界だということを彼女自身
思い知る。
 あくる日も、彼女は道場に通い続けた。一日の素振りの回数は100回、それは決して変わることなく、
現実として目の前に何度も叩きつけられるものだと知っていながら、それでも彼女は諦めなかった。
 次第に彼女は、師範に居残り練習をさせて欲しいと告げることになる。
 当時の師範はもちろん反対、女の子一人残して居残りなんてさせられるわけもなく、ましては責任者
としての管理を彼女に任せるのは負担があるからだ。
 だがそれでも彼女はしつこく食い下がった。責任能力がないのもわかってる、女の子だって事も
もちろん自覚している。だけど、と。
 あきらめたくない。あきらめたらその時点でわたしは大切なものを失う、そう彼女は思っていた。
 直訴は二週間にも及び、ついには師範も二人以上の居残りであれば良しという条件で了承を出した。
 それだけでも十分すぎる話だった。道場にきてまだ日が浅いとはいえ、居残りで練習が出来るのだから、
彼女にとってはそれ以上良い朗報はなかった。
 だが、とここで問題を改めて認識する。まだ道場に入って日の浅い彼女に、居残りを一緒にしてくれる
練習相手なんているわけがないからだ。
 案の定、声をかけても応えてくれる人はいなかった。

 勉強があるから、門限があるから、友達待たせてるから親が待ってるから行かなくちゃごめんね、ごめんね。

 

 ごめんね―――――。 

 

 痛感する。友達がいないことにではなく、もはやこの道場が自分にとって意味のない場所であることを。
 覚悟はしていた。剣道がみんなにとってどんなものか、ただの習い事でしかないとは思っていた。
けれど、それを大人が察してくれても良かったんじゃないだろうか。あの頃のわたしにとって、唯一の
拠り所は師範、あなたのところなのですから。
 そしてそれは日を追うごとに明確な形として現れてくる。
 師範は極力わたしを避け、周りの反応は徐々に冷たくなっていくばかり、いつしか一人になるのではという
不安と焦燥から、彼女は声を掛けるという信念を心のどこかで折りつつあった。
 変わらぬ素振りの回数は100回、何度やっても超えることの出来ないものに、少女は諦めの色を見せていた。
 だから、そのときに話しかけてきてくれた男の子を、少女はヒーローか何かに見えてしまったのだ。

 ―――――こんにちは。

 声をかけたことのない子だと、彼女は直に感じ取った。
 身長はわたしと同じくらい、子供にしてはやや長めの髪にほっそりとした顔つきでどこか人懐こい。
笑ったらどういう顔をするんだろうと少し思いながら、いぶかしむように用件を尋ねた。
 なにか用? わたしこれから練習するの、だからあっちいって。そんなことを少女は口にした。
 気にした風もなくその子は少女に向かって、

 一緒に、練習しないか?

 文字通り、少女の中で時間が止まるような話を耳にした。
 硬直しつつある首を全力で捻りながらその是非を問う。どういう意味、それはつまりわたしの練習に
付き合うっていうこと?
 わたしに付き合うってことは夜遅くまで竹刀を振るし、それこそ子供として面白くないことなんだよ?
 それでも、わたしの練習に付き合うの?
 冷ややかな目線を、声からして少年に少女は投げかけた。目指しているものが違えばその練習過程も
違う。ただ振れば良い竹刀をどこがおかしいのか、どうすればもっと良くなるのかを理解してくれないと
練習に付き合ってもらう意味がない。
 そういう意図を込めた言葉に少年は怖気ずくでもなく、

 ただ「もちろん」と一言だけ応えた。

 

 少年の名をなんと言っただろうか。それは今の彼女は覚えていない。
 ただ記憶に残るのは、あの時応えてくれた少年の言葉に、日々の練習の思い出。
 握りしめた手のひらにはごつごつとした硬い感触。竹刀を握った手には剣タコが出来てしまうため、
どうしても硬くなってしまう。
 グーとパーを繰り返しするのを見つめながら、隣にいた剣豪は彼女に聞いた。

「どうした大河、座禅の刻はとうに終えているというのに。何かそれほどまでに思うところがあったか?」

 いやなに……そう切り返して僅かな自嘲の笑みを、彼女は浮かべた。

 

 


 ――――――――ただの昔話よ。


戻られます?