「……あっ」
 
 台所で料理をしていた楓が、困った声を上げた。
 案外完璧に家事をこなしているような彼女だが、少しうっかりやさんなのがチャームポイントとでもいうのだろうか。
 しまったなぁという顔で口を閉ざし、首からかけていたエプロンを手早く外して外へ出る身支度をしている。大方醤油か何かが切れていたのだろう。
 簡単に目配せをして財布を捜している様を見ているだけでなぜか目の保養になるのは、きっと自分が男だからだろう。あぁ、無情。

「なにしてるの、いくよ?」

 はっ? と今度はこちらが声を上げる番だった。

「醤油、買いに行くんだから一緒にきなよ」
「はい? お醤油なら自転車で行けばすぐだろ、何で俺が」
「一人でいったって面白くないでしょー。だから」
「だから?」
「だからいくよって」

 意味がわからん。何で俺がちょっとそこまでの道のりで連れださにゃならんのだろう。
 第一面白くないからというのがまずわからん、行って帰ってくるだけに面白さを追求する必要があるんだろうか、問い詰めたい。
と、思っていつつも準備してしまうのはなぜだろうか。

「癖ね」
「思考を読むなよ。というか俺口に出していたか?」
「うん、思いっきり。あー面白さを追求するのはあれね、単に退屈しないため」
「ちょっとの時間じゃん。すぐ帰ってくれば別に気にもならない」
「へぇ…それじゃ亮はわたしと離れても平気なんだ? 哀しいなぁわたしたちの愛ってその程度だったなんて…」
「………女ってどうしてそう―――」
「ん、なんかいった?」
「へいへい、なんでもございませんよー」

 生きてる中でこんな言葉を聞いたことがある。
 惚れたら負け。どんな場合においても女に惚れるより惚れられたほうがいい。そんな風に確か高校の友人から聞いた。
 けどまぁ、どう足掻いても人間の本能には逆らい難いものもあるわけで。

「しかしまぁ、そうすっと自転車一台しかないし歩くか」
「えーそんなかったるいことしたくないなぁ。座るところあるんだしいいじゃん、二人乗りで」
「お前なぁ……」

 楓とは大学で知り合った。その頃俺たちの関係は単なる卒業の研究仲間という形で、ほとんどの時間を二人とも研究室で過ごしたり、帰るのもかったるいということもあって、たまにこうして大学に近い俺の部屋で生活をしていたりする。
 初めはくすぶっていた楓も慣れたようで、最近では俺が部屋にいるというのに勝手に風呂に入ったりする始末。
 果たしてそれがいいのかどうかは定かじゃないが、正直健全な青少年、いや青年のいるところでやるべき行動ではないと思いたい。
 実際研究室では二人とも口を利かないし、この関係は学校側や友人にもしられてはいないが、それが逆に後ろめたかったりする。
 なぜ?
 それはもちろん、嘘をついているような気がするからだ。

「鍵かけた?」
「かけたよ。あーそういえば朝用のパンがなかったなぁ…亮ちゃんと生活してるの?」
「…楓、段々所帯じみてきたのは気のせいか?」
「気のせいよ、それより亮、あなた少し頬が痩せこけてない? きちんと栄養補給しないと早死にするわよ」
「わっ、ちょっとまっ、いきなり顔寄せてくるなって!」

 楓はそれでもいいという。遅くまでいるのだから誰にもわからないのは仕方ないし、それに近場であれば研究のほうもはかどる。親にも連絡は取ってあるし。
 そういった意味では確かに俺も同意だった。というか親が同意したのはかなり驚いたが、どうやら楓にはそれが普通らしい。風来坊というか何と言うか。
 だからなんていうか、正直自分たちの関係をはっきりさせたかった。
 俺たちはどういう関係なのか。恋人同士なのか、そうでないのか。

「んーじゃ…ほれ、乗りな」
「ん……」

 荷台に座った楓が、優しく腰に手を回した。横座りしているために少しバランスが心もとないが、正面から両手を回されて胸が背に着こうものなら俺の理性バランスが危ない。
 そういった意味では少し軽く手を回す優しさが、うれしい。
 カチャンと音を立てて二輪が回りだした。空はもう暗く、道には電信柱から明かりを灯しだしていた。
 街路は少し前に舗装されて、今は自転車の乗り心地がいい。二人乗りで走らせるには十分な気持ちよさが風を通して伝わってくる。
 すると横の草木から、不思議と懐かしい音色が聞こえてきた。

「へぇ……もう鈴虫が鳴いてるのか」
「秋だからねぇ。最近は研究ばかり根をつめていたから、亮こういうことまったく気がつかないでしょ」

 確かに、いつも実験の数値が同のと考えていたから、夜帰ってくる割にまったく気がつかなかった。
 これはちょっとした気分転換になるな。そう考えて耳を澄ましてみる。
 初めは前奏、多めの鈴虫たちがこれ見よがしに自分たちの唄を聴いてとアピールして、協調も何もない。けど、不思議と笑ってしまう音楽だ。
 自転車を漕いでみる。徐々に音楽は遠ざかり、そして次のパートへと自然に変化していく。
 曲がり道で聴こえてくる唄はソロパート。一匹の鈴虫が、自分だけで生きていくような力強い音を奏でてがんばっている。
 同時に蛙たちも鳴き、鈴虫の声を後押ししている。
 そして声は遠ざかり、直線では次のパートへ移り変わる。
 そこでは哀しみに暮れた一匹の鈴虫が、夜を謳うように静かに今はない月を見つめながら鳴いていた。
 憂い、切なく、そして切望と絶望をのせて鈴虫は鳴く。一匹という誰もいない世界を哀しみながら。
 そして最後、街灯もなく道が砂利道な場所ではカルテット。四匹の鈴虫が一つの音を奏でていた。
 これは一つの物語、作られたものではなく自然の中で作り出された本物の音が、俺の耳にはいってきた。
 
「ねっ? たまには外に出るのも悪くないでしょ」
「…………あぁ、たまには悪くないな」

 心から優しくなるとはこういうことを言うんだろう。鈴虫たちは二人の聴者を惜しむように、更に鳴いていた。
 安らぎ、温かみを教えてもらった鈴虫に、変なようだが感謝をしたい。その唄に、少しの勇気をもらえたことに、重ねて感謝をしたい。

「なぁ、楓………」
「―――――ん、なに?」

 今ならきっと、何も怖くないから。



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