確か、その日はひどく晴れていた日だった。
 熱気が咽上がる中、私は廊下で空を見上げていた。
 軽装といってはなんだが、タンクトップと穿きなれたジーンズ。右手には団扇と氷の入った水程度。
 しかし足先は水を入れた大きめの桶に入っている。これをするだけで暑さは格段と違うとまではいわないが、風流だ。
 軒にかけられた風鈴がどことなく寂しげに鳴り響く。時期はすっかりと夏になって、私たちの衣類をゆっくりと剥ぎ取り始めていた。
 初めて味わう暑さ、という割にはあまり熱いという感覚はない。もちろん汗をかいたり喉が渇くといったことはあるが、身体が霊体である分にはあまり影響を受けないらしい。
 それはそれで少し残念。
 両手をつっかえ棒にして空を見上げていると、静かにセミが鳴き始めた。
 この夏初めて聞きますね。
 大方、門の近くにある木々のどこかにいるのだろう。一週間という決められた時間の中で、自己の主張をするには鳴くしかない。まさにこの鳴き始めはセミの一生がかかっている。

「――おや」

 その玄関先のそば。
 なんとなしに向いた先にうごめく小さな生き物は、灰色と黒の毛を舐めながら不自然な動きで歩いている。
 猫でしょうか?
 しっかりとメガネの位置を直して、サンダルを履く。庭先に出るときは付属の靴があって非常に使い勝手がいい。
 時たまこの靴で買い物に行こうとすると、士郎が窘めに来るが。
 近寄ってみると確かにその生き物は猫だった。こちらを見つけるや否や、先ほどと同じような不自然な動きで逃げる。
 と、後脚に妙な違和感を感じた。

「っと……」

 ワンステップ。
 一瞬の動きで猫の逃げ道をふさぎ、驚いた猫は突如現れた敵に驚くが、すぐに逃げようと体制を変えて振り向く。
 もちろん逃がさない。
 がっちりと捕まえたその手の中に猫のお腹から抱き上げる。
 すると猫は勢いよく暴れだし、何度も私の手の甲を引っかいては噛み付き、逃げることをやめようとしない。

「落ち着きなさい、私は敵ではありません」

 胸の中で優しく抱きとめ、威嚇させない程度に背を撫でてやる。
 暴れていた猫は暫く腕の中でもがいていたが、疲れたのか、それとも諦めたのか。抵抗するのを止めた。
 見る限り、後脚が変に曲がっているのが第一印象。
 骨が折れているのかもしれない。この辺では車通りこそ少ないが、士郎の家であれば塀は高い。降りようとして脚でも挫けば骨折に至るかもしれないだろう。
 さて。
 我ながら少し厄介な拾い物をしてしまった。


「こりゃ骨折だな」
 案の定、士郎に見せた結果はその一言だった。
「でも変な折れ方はしてないから、添え木を当てて包帯を巻けば綺麗に直ると思うよ」
「そうですか」
「珍しいですね、ライダーが猫を拾うなんて」
 いえ、とその場は言葉を濁す。
 言われてみて確かに、なぜ私は拾ってしまったのだろうかと思う。ただ怪我をした猫が士郎の庭を歩いていて、ふと見かけただけだというのに。
 別に放っておいてもよかったはずだ。飼い猫でもないのだし、必要以上に関わったところでこれといった意味もないことだ。
「でも暫くは自分で餌をとるのは難しいかもしれないな」
「猫って、結構縄張り争いとかありますもんね。この辺だと柳桐寺のところでしょうか」
「猫は自分で餌もとれないのですか?」
 少しだけ不思議に思ったので、私は聞いてみることにした。
「あぁ、都会というか新都の方に出れば人間が出したゴミを漁ればいいと思うけど、この猫ってこの辺で拾ったんだろ? だとすると多分新都のほうにはいけないだろうしな」
「ねずみとかはいそうなものですが……」
「この脚ではねずみといっても難しいですね」
 と、いっているサクラはどうしたものかと困っている。
「では餌を与えるといったことは」
「そもそもこの猫に首輪はついていないだろ? 野良だとすると誰も餌とか与えないと思う」
「するとこの猫は」
「餌がとれるようになるまではどうすることもできませんね……」
「そんなっ、何とかならないのですか?」

 熱くなっている自分に少なからず驚く。
 自分にはまったく関係ないことでもあるにかかわらず、サクラに対して何かの危険があるわけでもなく。
 ただ、なんだかその無常な現実に、少し胸が苦しくなった。
 人を殺すことにはなんの感情も沸かない。それが今までの使命でもあったから。
 ただ、なんとなく。
 なんとなくこのまま見過ごすということには、賛同しかねた。

「なんとかって言われても、俺や桜は学校があるし、遠坂がやるなんて絶対言わないだろうしなぁ」
「それは、そうかもしれませんが」
「野良っていうのは基本的に人間の餌を受け付けないんだよ。一度人間が餌を与えると、自分で餌をとれなくなるんだ」
「それに……猫と言うのは戸などで爪を研ぐ習慣がありますからね。先輩の家は格好の標的かも」

 その、サクラの一言で何かが閃いた。

「では私が飼います」
「はっ?」
「餌は私が与えましょう。猫の爪に関しては庭に放てばいいし、軒下に住み着いてくれればねずみを捕ってくれて一石二鳥です」
「ちょっとまて、だから家で飼うこと自体――」
「えぇ。『家の中で』飼っては戸などが傷つくのでしょう?ですから庭で飼います」

 幸いなことに餌代に関しては自分の働き口から出なくもない。
 餌を選ぶにしてもねずみを探すのは厄介だ。つい最近買い物に連れて行かれることもあって、動物に対応した餌が売られていることも知識で知っているし。
 問題は、

「士郎、いいですね?」
「ちょっと待てって。言ったろ? 野良を飼うっていうのは意外と大変なんだよ」
「おや、正義の味方であるあなたが困っている動物を助けようとしないとは、いつから自分の信念を曲げましたか」
「そ、それは……」
「別に私はあなたに飼って欲しいとは言いません。ただ提供して欲しいのは庭です。あの広い庭でしたら猫が運動に困ることもなし、更に敷地も広いと」
「確かにそうだけどライダー。飼うってことがどういうことかわかってるのか?」
「猫一匹従えなくて何がサーヴァントでしょう」

 そうじゃなくてだな、という士郎の言葉は、意外にも廊下から聞こえてきた。

「いいんじゃない? ライダーが大丈夫だって言っているんだし」
「遠坂? お前、人の家だと思って――」
「今更猫一匹増えたところでどうだっていうのよ。飼い主がライダーであればそのすべての責任がライダーに。糞の後始末や破損した器物にしても責任はライダーなのよ?」
「簡単に言ってくれるけどな。馴染みの深いものだってあったりするんだぞ。それを傷つけられて直せっていうのが難しいだろ」
「できるわよ。忘れたの?」

 唐突に、士郎の顔が気づいた風に変わっていく。
 リンや士郎は魔術師だ。壊れたものを魔術で直すことは、ほんの基礎に近い。すべからくそれは猫が傷つける程度のものでは造作もないだろう。
 
「では」
「でもねライダー。わかっていると思うけど猫の責任はあなたの責任なのよ。その辺理解できてる?」
「もちろんです。そのあたりについては」
「猫が蔵の中を荒らしたり、木をかじったり、バイトある中でやりくりできるの? そうすれば本を読む時間も減るだろうし、わたし達だって世話することはできないわ」
「そ、それは……」
「餌の時間だってそう。やりすぎれば身体に悪いし下手をしたら病気にさせかねない。自分の行う行動ひとつで、全然変わってくるのよ」

 正論。
 リンのいうことは、否定しようのない正論だ。

「確かにライダーには猫を生活させるだけの知識と能力がある。けどもっとも必要なのは猫に接する時間じゃなくて?」
「アルバイトを、働く時間を減らせば」
「――本気で?」

 労働時間については減らしてもかまわないとは思っている。
 ただ問題なのは、時間を減らして支払われる給料で、どれほどこの家に負担をかけるかということだ。
 ちらりと、サクラのほうを見やると、一瞬視線を彷徨わせ目線を合わせる。静かな目は確かに「難しいですね」と語っていた。

「でもねライダー。確かに正義の味方であるこいつが、骨の折れている猫を見捨てるようなことはないわ」
「本当ですか?」

 そんな目で見るなよ、と困った顔を浮かべて、士郎は苦笑い。

「飼うことは無理だけどさ。せめて骨が治るまではうちにいさせてもいいんじゃないか?」
「えぇ、それであれば必要以上に世話をする必要もないし。完治の期間も大体一ヶ月程度でしょ?」

 不敵に笑みを浮かべ、

「問題ないはずよ。ねえ桜?」
「えっ? はい。それでしたら大丈夫だと思います」

 再び計算をして頷くサクラも、それであれば大丈夫だという合図を出す。
 であれば話は簡単だ。猫の脚が治るまで、私が管理すればいいだけのこと。ミスなんてしない。できる限りの細心の注意を払うまでだ。

「ところで、セイバーはどこに行ったのですか?」
「あー、藤ねぇの頼みごとで今は柳桐寺に合宿しに行ってる。剣道部の」

 あの元王は肝心なときにいない。といっても、あまり頼む気はなかったが。
 ……あれ?

「そうですか。では猫の管理については私がします」

 ともあれ、これで話の決着がついた。
 猫は私が責任を持って世話をし、脚が治るまで変な真似をしないように注視していればいいだろう。
 なんでもない、ただそれだけのこと。
 それができれば誰も文句はない。私と猫の問題だから。
 うん、私と猫の間には、特になんの感情もない。
 そうだろう? 
 ―――ワタシよ。


 次の日から、私の日常は大きく変化した。
 まずアルバイトのことだが。当然しばらくは休みがちになった。
 一ヶ月近くとはいえ、アルバイトを休むのは家にも申し訳がなく、同時にアルバイトの店長にも申し訳がなかった。
 自分から働かせてくださいと言ったのに、その実は猫の世話で休んでいるという。理由を話せば「わかったよ」の二つ返事で返してくれたが、正直気持ちのいいものではなかった。

「こら、大人しくしなさい」

 そういって窘めるものの、猫はなかなか大人しくしてくれない。
 脱兎のごとく逃げ出した猫は、軒下に隠れたままこちらをじっと見つめ、警戒しているのか暗闇の先には二つの光が不気味に光っている。
 難しい。
 が、それもしばらくするとサクラがアドバイスしてくれた。

「餌で釣ってみるといいと思いますよ」
「餌、ですか」

 効果は抜群だったようで、餌を専用の更に乗せたところ、じわりと軒下から身体を乗り出して匂いをかぎだした。
 そうして、まずは猫と触れることを許された。
 

 次は風呂に入らせることに苦労した。

「出血場所から細菌が入ると、骨が腐る可能性があるからな」

 そういった士郎のアドバイスは、非常に焦燥感を駆り立てるものだ。
 次の晴れた日、大き目の桶の中にぬるま湯を溜め込み、猫を洗うという行動に出ようとした。
 どうも猫は水を怖がるらしい。その何故は知らないが、とにかく水といったものに猫は恐怖したように怯え、近づくことはしなかった。
 しかしそれとこれとは別問題だ。一生歩けなくなるか、それとも一瞬の恐怖を克服して強くなるか。答えなどすぐに出る。

「うにゃ!」
「いたたっ、引っかかないの」

 暴れる猫を抱えあげて水の近くに近づける。
 流石に全身を浸けるのは抵抗があるので、そっと水を救って撫でるように洗うことにした。
 それでもなお暴れるが仕方ない。何とか逃げるのを抑えつつも洗うと、幾分毛並みもスッキリしたように見える。
 が―――。

「あ……」

 思わずそんな声が漏れた。
 猫が洗い終わったと同時に腕の中から逃げ出し、ごろりと寝転ぶ。
 当然、そこは庭地。土が多く存在する地面だ。

「――」
「ゴロゴロ……」
「ふっ、ふふふふふ」
「っ?!」

 私に対する挑戦状と受け取りました。
 その日は一日、猫とくだらない格闘していた。


「ほぅ、猫ですか」

 その次は妙に興味を持ったセイバーに苦労、もとい困った。
 非番――セイバーに限っては毎日が非番だが――であったセイバーはその日、餌を与えている私と猫を見て、何から興味を持ったらしい。
 獅子と猫。種類は同じであるが、果たして仲はいいのだろうか。微妙な関係に変な興味が沸く。

「触ってもいいのですか?」
「構いませんよ」

 触れたらですが。
 案の定、猫はセイバーの伸ばす手を爪で引っかこうとして腕を振るう。

「む?」
「フシャーッ!!」

 明らかに威嚇している猫をどう思ったか、セイバー自身も妙に気合を入れた目をした。

「ふむ、私を引っかこうなどと十年早いですね」
「――セイバー、猫にそんなことをいっても意味がないでしょう」
「ふふふ、そうかもしれません。ですが意外とかわいいものですね。この」

 吼えた猫の張り手が、完璧にセイバーの手を捉えた。
 一瞬の間をおいて、セイバーの手には小さな赤い糸が手に残った。

「――この、反逆者は」

 それから。
 獅子と猫のケンカが始まった。


 夜中。
 サクラも、士郎も、冬木市全体が寝静まっているころ。
 小さく鳴く声が、私の耳に届いてしまった。
 ――はぁ。
 眠気も声に惑わされ、徐々に覚めていく。
 同様に私もため息。
 こんな時間にどうしたのだろうか。敵が来たというわけでもなし、ただ切ない声が聞こえてくるとは。
 起き上がり、部屋を出る。眠くはあるが、猫の声で誰かが目覚めてはことだ。早急に対処したほうがいいだろう。
 ひんやりと冷える廊下が気持ちいい。夏独特の暑さが、足の裏に残る冷たさで緩和されていくよう。
 廊下を歩き、月明かりが差し込むところ。そこに泣き声の主が、丁寧に座って屋敷に向かっていた。
 柱を引っかいた形跡もなく。
 戸を削った形跡もなく。
 ただ、座って猫が鳴いている。
 いい子だ。
 士郎やリンのいうようなことはなく、ただ静観できる猫。
 いい子だ。
 いろいろあったが、世話のかかる子だったが、楽しかった。
 その猫が、今目の前で鳴いているのだ。
 伸ばす。
 甘えている言葉。
 伸ばす。
 嘆いている言葉。
 伸ばす。
 望んでいる言葉。
 伸ばす。
 求めている言葉。
 伸ばす。
 だけど――。


「自分の行う行動ひとつで、全然変わってくるのよ」


「―――ッ!」

 伸ばした手は、猫には届かない。
 甘美な言葉が、私の脳を激しく揺さぶる。
 何度も伸ばした手が、猫を抱えるヴィジョンを映し出す。
 それは確かに理想で。
 それは確かに幻想で。
 それは確かに残酷で。
 それは確かに冷酷で。
 でも、それは確かに過ぎた優しさだ。
 伸ばしかけた手を、再び戻す。
 猫の鳴き止まぬ声に、私は背を向ける。
 振り向いてはダメだ。振り向いてはダメだ。
 そう何度も言い聞かせ、私は来た道を引き返す。
 痛いほど手に力が入る。理性を保つにはそれくらいがいい。そう考えることで猫のことを忘れるようにした。
 背中には、鳴くのを止めない猫の声がした。


 猫を拾ってから二十七日目のこと。
 とうとう猫を放す日が来た。

「とりあえず玄関の外にまで猫を出すか」

 そういった士郎は、猫を抱えて外に連れ出しに行った。
 傍にはサクラ、リン、セイバーもいる。彼女たちも猫の世話には手数をかけていたから、この別れは少し寂しいのかもしれない。
 私も拾ったものの責任として、最後にはキチンと立ち会うことにした。

「ほらっ、お前はもう自由なんだ」

 士郎の腕から猫が解放される。
 猫は士郎の顔を一度見上げ、なにやらきょとんとした顔で動こうとしない。
 何度か脅かそうとしてみるが、結果は同じだった。

「む、困ったな……逃げようとしないぞ」
「人間慣れしてしまったんですね。少し厄介かも――」

 サクラの言葉を聴かずに、私は一気に前に出る。

「どきなさい、士郎」
「ライダー?」

 一瞬、誰もが目を疑ったかもしれない。
 振り上げた足、中に舞う猫、訪れるそれの悲鳴。
 私が猫の腹を蹴ったのだ。

「ライ――」
「やめなさいセイバー」

 猫はすぐに体勢を立て直して、こちらに警戒した様子でいる。
 そんな姿をした猫に、もう一度私は今度は先ほどより強めに蹴りを与えた。

「ギャッ」

 そんな悲鳴が、漏れた。

「何をとまっているのですか」

 私は勤めて冷静だ。

「所詮は野良、人間に甘えることすらおこがましい」

 ゴルゴンの末女である私に甘えるなど、あってはならないこと。

「消えなさい。今すぐに!」

 とどめの癇癪球を叩きつけて、威嚇する。
 猫は音に驚き大きく距離をとったが、まだこちらを見つめようとする。
 今度こそ、思い切り蹴った。

「消えなさいと言っているでしょう!」

 殺気すら飛ばすほどの目線で、猫を遠ざける。
 もう二度と関わらないように。人間の目につくことすらないように。
 本気で、殺すつもりで私は威嚇した。

 そうして、猫は去っていった。

「お疲れさま、ライダー」

 そっと手を置いたのはリン。

「あれくらいがちょうど良いのよ。人間慣れしちゃうと、保健所に連れてかれて殺されるんだから」

 すかさず士郎も相槌を打った。

「そうだな。確かにライダーの判断に間違いはなかったぞ」
「そうだったんですか。すまないライダー、私はどうやら勘違いをしていたようだ……」
「なにを言っているのですか。私は別に飼っていたわけではありません。野良を野良に返すことは普通でしょう」

 そう、ただそれだけだ。
 野良を野良に。それ以上の理由なんて存在しない。
 あの猫も、もう二度と会うことはないだろう。それが自身のためだ。
 人間と他種族の共存。
 そんなこと、どちらかが悲しい悲しい運命に落ちるのだから。


 その夜か。
 あの別れの際、何も言葉を口にしなかったサクラが部屋に訪れた。

「今、いいですか?」
「かまいません。どうぞ」

 音もなく戸を開けたのは声の通り、サクラだった。
 カーディガン姿、おそらくもう寝る予定だったのだろう。その前に来たということは、簡単なお話。

「昼間はご苦労様でした」

 な、わけなかった。

「当然のことをしたまでですから」
「そうなんですか」
「そうです」

 言葉にしなくても、ただなんとなくサクラは全てわかっている気がする。
 それは単にサクラと私が繋がっているという理由からではなく、似通った部分があるから。
 だから、多分サクラはそれを知って、この部屋に来たのだろう。

「……」
「なんでしょうか。サクラ」

 だから、こうして私の横に来て、肩を合わせている。

「いえ、ただなんとなくです」
「なんとなくですか」
「はい、なんとなく」

 肩に伝わる温もり。
 優しさ。
 つらさ。
 切なさ。
 どれも、サクラが共有してくれた。

「では、しかたありません」

 今だけ、私はサクラに甘えることにした。

 

 

 ライダーが猫を追い出した日から数日。
 バス停乗り場の近く。十字路になっている隅に、普段見かけないものを見つけた。

「あんなところに、誰だ? 猫の餌をおいたのは」

 隣にいる桜もそれを見つけて、ふと苦笑を漏らしていた。

「さぁ? この辺には意外と猫に優しい人でもいるんでしょうか」
「まったく、この間ライダーが追い返したのに、また猫がうろつくじゃないか」
「そうかもしれませんね。でも一匹や二匹くらいならよくありませんか?」

 確かに一匹や二匹程度ならいいかもしれないが。
 それでもバスがこの道は通っているんだ。餌を置くならもっと違うところに置いたほうがいい。

「では、そう伝えておきますね」
「おう。って、桜はこの餌誰が置いたか知ってるのか?」
「いえ、知りません。ですがきっといい人ですよ」
「? そうか?」

 はい、と言って桜は先を歩いていく。
 まーいいか。とりあえずこの間の猫も、人間にはもう出会わないだろうし。
 ライダーのやり方には少しやりすぎなところもあったかもしれないが、確かにあのやり方は間違っていなかった。あれはあれでひとつの優しさだし。
 ふと、振り返る。
 猫の餌が乗っている皿、それはどこかで見たことのある、深緑色の陶磁器だった。


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