ずれたメガネを持ち上げる。
 少しずつ暖かい風を吹き込ませる冬木の町。下る坂道は緩やかに、頬に春の空気を滲ませた。
 パタパタ揺れる髪の毛は遊ぶ。ペダルを漕がずに進む自転車と共に。
 下方に見えるのは商店街。私の行くべき場所がそこに見えている。
 自分が働くことにこれといった意味はない。サーヴァントとは食事を必要とせず、必要とするのは魔力だけなのだから。
 だが―――。
 耳に響く風の音。
 近所に咲く花の香り。
 この身体のこともあって、幼いころは少女らしくしたことが記憶にない。
 そのためか、最近妙に子供っぽさが出てきているのは気のせいではないだろう。
 困ったものだ、と同時に、それでもいいかと思う。子供のように振り替える自分も、割と嫌いではない。
 気持ちがいい。
 そう思えるのは昔があったからか、それともこの世界に来て変わったのか。
 後者だろうと願う。昔は昔であり、それは私自身の中では変わらぬこと。もし変わったというのであれば、頑なになっていた私のココロを今の世界が解きほぐしてくれたということ。
 誰かに出会い、戦い、誰かを守り、また戦う。
 自分が叶えたい願いは何だっただろうか。そんなことも忘れてしまうほど、今が素晴らしいことに私のココロは打たれている。

 ――チリーン――

 ベルの音。
 振り返ればもうひとつの自転車に乗ったサクラが、こちらに向かって手を振っていた。

「はぁ、はぁ。ライダー漕ぐのが早い……」
「サクラ? 今日は家にいるのではなかったのですか」

 息を切らせながらサクラは自転車を横につけて並走し、「その予定だったんですけど」とこちらに困った笑いを向けながら言う。

「実は今日の夕飯に必要な材料を買うの忘れちゃって」
「なら私に言ってくれれば帰りに買ってきますが」

 パスが通っているなら連絡も取れるはずだ。まだ携帯電話も持っていない私からすれば、士郎の家との連絡手段はサクラとの交信に他ならない。
 確かにサクラは自分の魔術を行使したがらない。過去のこともあって、使うことを拒否し、普通の女の子として生活を過ごしたいからだ。
 しかし息が切れるほどに追いかけてくる必要性はないだろう。今日が私のアルバイトだということはサクラも知っているし、少し話す程度ならアルバイトの先にやってくる。それは今までもよくあった。
 だというのにサクラは私が普段利用している自転車を使って追いかけてきた。
 ほかにも何かあるのだろうか。あるとすれば

「先輩から伝言を頼まれまして。ライダーに」
「伝言、ですか」

 如何様な、とは聞かない。なんとなく想像がついている。
 視線を下に向ければ私の愛機――正確には士郎のだが――MTB、私の力を存分に現してくれる自転車。
 歯車を利用した増力器機は快調に、手に馴染むハンドルは熱を帯びている。
 走る力を込めれば気持ちよく、緩めれば心地よく。それを可能にするのがこの自転車だ。
 つまり何がいいたいかというと、

「自転車を返せ、って」
「でしょう。士郎のことだからそんなことだとは思いましたが」
「今日はなんだか柳洞先輩のところに遊びに行くって言っていましたから」

 …………そういえば。
 昨日の晩そんなことを士郎に言われて「俺の愛機を使うなよ」と念を押されたような。

「………………」
「あっ、すぐに戻れということじゃなくて。今度は気をつけてくださいってことだと多分」
「そうですか。では仕方ありません」

 何かあったのですか? と尋ねようとした。純粋にサクラが何かを隠しているんじゃないかという気持ちで。
 あまり表に表情を出したがらないサクラは、時折自分が辛いときでも無理に通そうとする癖がある。自分が黙っていれば、周りは静かでいられる。荒波を立てたくないという気持ちがそうさせるのか、それとも別の理由でかは判断しかねるところだが、少なくとも私の前ではそう見える。
 サクラの弱さは同時に強さの裏返しだ。一人でもできるということを頑なに信じ、それを現実にしてきた。もう少し甘えてもいいと思うんだが……。
 「サクラ、今日は一体――」と口を出したところで、それを遮るかのようにチリンとベルが鳴る。

「あらあら、遠慮という言葉を知らない巨体がなんだか見えるわね」

 後ろから聞こえてくるのはあまり相手をしたくない悪女のそれだった。
 どう控えめに見ても自転車には不向きであろうタイトスカート、春先だというのに未だセーターを着て前の籠には買い物用のバックを詰めたそいつ。

「随分と女らしくない乗り物だけど、あらごめんなさい男に人気のないところはそんなところが男くさいからかしら?」
「自転車を乗り回して一端の現代に馴染んだと見せているようですが、車輪がふらふらしていますよ」

 はっと下を向き、すぐに騙されたのだと魔女は苦虫をつぶした表情をしてしまう。

「小癪な手を……」
「いえ、さるお方からよく勉強させてもらっていますので」
「ライダー、それって誰のことかしら?」

 間違っても貴女のことですとは言えない。
 しかし珍しいこともある。キャスターが自転車でどこかに行くのを見かけるのは今日が初めてだ。しかもアルバイトの時間と被るなんて。
 買い物であれば普段適当にバスでも使いそうなあの性根の悪い女が自転車。
 どう考えても裏があるとしか思えない。

「キャスター、あなたまさか」
「それ以上の口実は控えたほうが身のためよライダー」
「……驚いた。まさかそんなことがあったのですね」

 視線を腹部に向けると無理やり凹ませているキャスターが怒鳴る。
 その反動か、自転車が道路に出て車とすれ違う。
 あっ、あ……あーーー、残念ぶつからなかったか。

「あ、危ないじゃないのよこのポンコツ!!」

 怒鳴る姿もやけに似合っているのはイメージだからだろうか。

「キャスターさん、自転車に乗り慣れてないのによく自転車で来ようとしましたね」
「いいのですサクラ、彼女ならたとえ車に轢かれようとも死ぬことはありません」
「ちょっと、確かに車程度の速さなら十分対処できるけど轢かれたら私だって死ぬわ」
「そうですか、意外とヤワなんですね」

 あんたねと歯軋りをしながらこちらによろよろとやってくるキャスターは滑稽だった。
 坂も終わり軽やかに走っていると、なぜか横についてくるキャスター。
 サクラもそれを見て何か思うところがあったらしい。わずかに苦笑して声をかけようか迷っている。

「随分と疲れているようですねキャスター。日頃から運動をしていないのですか?」
「どこかの筋肉バカと一緒にしないでほしいわ」

 まだ口は軽い。

「そうですか。ではまだ商店街まで距離がありますから、競争でもしましょうか」
「なっ―――」
「冗談です。おやどうしましたキャスター? 妙に疲れた顔をして」
「……なんでもないわよ、この性悪女」
「あははっ、ライダーもキャスターさんも落ち着いて」

 キャスターがスピードを緩める。
 サクラがスピードを緩める。
 私も、スピードを緩める。
 間違っても私は違うが、サクラから見ればキャスターのそれは微笑ましく見えるようだ。そんなサクラに私はあわせる程度のことしかできない。
 自分でもわかっているらしく、キャスターは目だけをこちらに向けながら「なによ」と吠えている。

「私に合わせなくてもいいのよ。先に行きたいなら先に行きなさい」
「いえいえ、お互い家事を任されているもの同士ですから」
「私は別にサクラに合わせているだけですから」
「キャスターさんもお買い物でしたら、一緒に行きませんか? この前家に来てくださったときもあまり話せませんでしたから」
「なぜそれを……、まさかっ」

 強めの視線でこちらを睨むが、私は流すことにした。
 別に料理が下手なことを悪いとは言わない。士郎の家に来たことも、内緒にしていたこともサクラのためというのであれば気にすることでもない。
 単に、言ったほうが面白そうだと思ったからだ。
 なんでしょうか? と勝ち誇った笑みで迎えると今度は殺気まで具現化し、飛ばしてきた。

「あんたって女は、どこまで腐ってんのかしら」
「何事も万事進めばいいことでしょう。内緒にする理由などありません」
「そういう問題じゃないのよ!」
「ライダーにも買い物の基準みたいなのを教えるところでしたから、丁度よかったです」
「……サクラ、今日はアルバイトなのですが」
「えぇ、だからアルバイト先に電話しておきました」

 はい?

「今日は一日休ませてくださいって。これでも私、商店街では結構顔のきくほうなんですよ?」
「待ってくださいサクラ。急に言われても困ります」
「いい気味よデカ女」
「今日は随分と大きい口を利きますねキャスター。その様子では主とよい関係が築けていないのでしょう?」
「言ってくれたわねゴルゴンの末女、蛇のようなしつこさは伊達じゃないってことかしら?」

 互いに牽制しあうも自転車の上ではいまいち迫力が出ないでいる。
 そんなこともあってどちらともなく蹴りの応酬で始まり、手は出ないものの右へふらふら左へふらふらとよろめきながら攻防を進めていく。
 次第に場所は商店街へと突入していった。


「ちょっと、そのニンジンは私が先に見つけたのよ」
「野菜に先も何もありません。欲しければそこにあるニンジンを取ればいいでしょう」
「わかってないわね。ニンジンだって傷物とそうでないものがあるのよ。そんなこともわからないのかしら頭まで筋肉でできた女は」
「わかっていないのはあなたでしょう。形が整っていないニンジンでは味のバランスもまったく異なります。それが理解できないようではよほど引き篭もって魔術の研究ばかりしていたのでしょうね」
「二人とも、今日はキュロットを買いにきたんですよ。ニンジンはいりません」
「「………………」」

「オーストラリア産の肉なんて、所詮は下級民族ね」
「高級な肉は時として必要以上の味を出してしまいます。料理とは常にバランスですよ」
「高級な肉であればこその味が出るならそれを最大限に生かすべきだわ。それをわざわざランクを下げてまで整える意味がわからないわね」
「値段を見ていないのですか? 高級であればこそ値も張り、同時に全体としての消費量もあがる。コストよりパフォーマンスを優先するのが普通でしょう」
「二人とも、ひき肉じゃなくてばら肉を捜してくださいね」
「「………………」」

「水であれば六○のおいしい水に限ります」
「何を言っているのかしら、水といえばアルカリイ○ンの水でしょう?」
「天然という意味ではどちらとしても同じです。残る要素といえば飲みやすさでしょう」
「マイナスイオンというのはその人に残るストレスなどを解消する要素が含まれているのよ。相手を思いやる気持ちというのがあなたにはないのかしら?」
「水はそこまで拘っていませんから、安いほうでお願いします」
「「………………」」

 ……そうして、悪女とのケンカ(?)は進んでいった。

 夕日にくれ始める町並みを背にして、私とサクラはなだらかな坂道を歩いていく。
 籠のついていた自転車には、今日買った水や野菜。電球なども含まれている。
 こっそり自転車を変えようとしたら「私では先輩の自転車は高すぎて」と言われ、やんわり断られた。
 あー、あの女は帰った。

「夕飯の時間までに作り終えないと小姑みたいな坊やがうるさいから」

 この前アルバイト先で言っていた男のことだろう。どうにもキャスターはその男を苦手としているらしい。
 何がそこまで彼女を苦しめているかは想像に難くない。が、それも含めてもしかしたら彼女は楽しんでいる。
 そんな風にも取れるキャスターの行為は、あながち馬鹿にできるものではないのかも。

「さて、どうでしたか?」

 最初に口火を切ったのはサクラ。

「勉強になります。が、やはり料理のビジョンというのが浮かばないとなかなかわかりにくいものですね」
「そのあたりは帰ってからでも勉強します? 私や先輩、姉さんであればすぐに教えてくれると思いますけど」
「遠慮しておきます。疲れましたから」

 少しだけ嘘をついた。
 料理を覚えるということは少なからずサクラの特徴を消すことになる。
 ただでさえ士郎の家は料理のできる人間が多い。その中で私が料理を始めれば士郎と接触することも多くなるし、サクラの出番も減る。それは好ましくない。
 私の役割は家で静かに本を読んでいるか、時たま庭にやってくる猫の世話くらいだ。

「そうですか、ちょっと残念ですね」
「料理は自炊できる程度で構いませんから。そこまで力をつける必要はないでしょう」

 少なくとも、今は。

「ともあれ、今日はどうしたのですか?」
「どうしたって、何がですか」
「急に私のアルバイトをキャンセルしたり、キャスターを強引に買い物に誘ったりして。少しサクラの行動としては逸している気がします」
「そんなことはないですよ。ちょっと忘れ物をしたから買い物をした、それだけです」

 本当に? と言いかけて濁す。休日といえば家にいられることだ。サクラが士郎のいる家にいたくないわけがない。
 第一サクラが忘れ物をするということがあまり考えられない。今日買った材料だって買いすぎではないかと思えるほど。これはサクラにしてみれば予定外の買い物ではないか。
 ならどうしても出てこなければならない理由があった。とすればもう明白だろう。
 
「そうですか」
「はい、そうです」

 どこ吹く風が寒い。春先とはいえ、暮れにもなれば冷たい空気が首筋を撫でる。
 肩を少し縮めてサクラが寒がれば、サクラは自転車の立ち位置を変えてこちらに寄り添うようにしてきた。

「ふふっ、ライダーは暖かいですね」
「……」

 本当に、今日みたいなサクラは珍しい。

「それに、いい匂い」
「恥ずかしいです、サクラ」

 ずれたメガネを戻す。その隙にサクラを見るが、前髪が目の上にかかって表情は見えない。
 こういう場合、なんて答えればいいのだろうか。
 聞こえない程度にため息をつく。
 チリンという音。振り向いても誰もいない。
 隣を見ても俯きがちのサクラ。
 本当に、聞こえない程度のため息をもう一度ついた。

「あ……」

 足先まで伸びた髪をサクラの首にかける。
 マフラーとまではいかないが、少なくともこれで首筋は寒くないだろう。
 もちろん恥ずかしいが。

「首にかけておけば寒くはないでしょう」
「えっと、ライダー?」
「それにサクラはもう少し話したいことを話したほうがいい。辛いことでなくても、そうでなくても少し話すだけできっと変わるはずです」

 初めてサクラが私を見上げ、またすぐに俯いた。
 今度は腕に抱きついてきて。

「えへへ」

 さすがに恥ずかしいと言えなくなった。自分から話したほうがいいとか言った手前、突き放すことはできない。

「ですね、今日はゆっくり帰りましょう」
「夕飯に間に合えばいいのですが」
「いいんです。先輩にはこれくらいのお仕置きが必要ですから」
「そうですか、ではゆっくり帰りましょう」

 遠くの空で、カラスが鳴いている。
 近くの歩道で、子供が走り出している。
 山の頂から、鐘が鳴り響いている。

 私たちの上で、街灯が光りだす。


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