騒ぎに騒ぎまくった夜から。
旅行に行くための準備、計画、用意を衛宮家一行で話し合い、しばらくはてんてこまいの日々が続く。
アレがないだの、コレがないだの。もともと旅行のための装備などこの家には皆無であり、そのため家計には若干のダメージを受けた。
といってもそのほとんどは分割だ。リンのほうからも軍資金がでたり、サクラも少しずつ溜めていたお金を出して、みんなで足りない分をカバーしあう。一人だけとても恐縮していたのはいうまでもない。
と、そんなわけで。
準備を万端とし、当日は大阪の空港から飛行機で一路欧州へ。本旅行は船による数日間のクルージングが予定されていると後の通達で分かったが、ヨーロッパでクルージングと言われた直後に妙な焦燥感を感じて私はそのクルージングの予定ポイントを聞くことにした。
「航路ですか? えーっと……」
手紙に書かれている小さな文字と睨めっこをしながら、サクラは一瞬「あ……」とも「えっ……」とも分からない声を出して複雑な表情をしている。
それだけで理解した。私の予感が、的中してしまったことに。
巡航航路
――ミロス港―バルセロナ港
地中海を横断する経路と日程。横にはひどく似合わないマスコットキャラが地中海から見える名所を笑顔で説明している。
これには流石の私も言葉を失う。
ミロス港といえば私のいたあの島からすぐに位置している。天気もよければひょっとすれば影が見えるかどうかというほどの場所に、私は今この飛行機で向かっているのだ。
ああ確かに私はこの旅行を反対しなかったさ。クルージングなどすぐだし、一週間の旅行程度など私の今までに比べたら無いに等しいと軽んじていたことも。
これが聖杯戦争が欧州であれば、何も言わない。運命として諦める。だが時代は二十世紀、場所も東の果てと来れば、わざわざ現代科学の結晶に乗って小さな島国に来るとは普通思わないだろう。
イジメか、新手のイジメですか。
姉さま方、久々に私の心は下降に向きつつあります。
「…………誰のせいとはいいませんが」
「ん、ライダー何か言った?」
機敏に反応するサクラから、目線をそらす。
はぁ、なぜ今になって。
粛々としていて、死臭の匂いがこびりつき、歪んだ人間の砂が舞う世界など、もう古い話だと思っていたのに。
逃げて、逃げて、逃げ続けて幾星霜、それでも宿命というのは清算しなければいけないものか。
数々の英雄たちを石にした、私への清算。
恨まれる代償、たとえそれが、この身が朽ちた後でも呪縛し続けるのであれば。
幾度でも呪うがいい、幾度でも殺せばいい、幾度でも辱めればいい。
この身はもとより、そのために捧げた器なのだから。
――――――――――法螺貝の泪 ― a beautiful blue blue ―
と、いうわけで。私は今船上にいる。
船に乗り込んで夏休みの数週間を費やしながらクルージングを楽しみに、なんて和やかな雰囲気もさることながら、傍目にはすったもんだの火花を散らしている若き乙女四、いや三……、四人集としておくか。
右からサクラ、リン、セイバー、……イリヤだ。
「イリヤ、少しは離れたらどうですか」
「いやよ。レディーをお連れするのは紳士としての役目でしょ。それならシロウが適任だもの」
会話から察するに、誰が士郎の横に立つか決めかねているというのだろう。リンはリンでサクラを牽制し、サクラはリンに先を越されまいと無言の攻防を先ほどから繰り広げているが、そうしているうちに状況が均衡し、結局士郎の横にはセイバーとイリヤが着いている。
端に移る男集は集まる魅惑の女性に目を奪われ、同時にその中心にいる男に目で殺そうかというほどの怒りを込めた視線を注いでいる。士郎も居た堪れない空気を感じてか、どうやってこの場を乗り切るか必死に考えていた。
はっきり決めればいいだろう。単にそれだけのことではあるが、正義の味方は誰かを傷つけることを良しとしないのだ。
何をやってるんだか。ため息を一つ出して、船上の柵から水平線を見つめる。
右手にはトロピカルフルーツ。果汁たっぷりの飲み物は甘さ控えめに、女性のお腹にも配慮がいきわたっている。
水面は空よりも濃い。濁った色をした海は温めの飛沫を飛ばし、甲板でくつろいでいるカップルたちをキャーキャー盛り立てる。
はぁ。なにをやっているんだ私は。
こんな物思いに耽るためににきたのではないのに。
「浮かれない顔をしておりますが、気分が優れませんか?」
トルコ訛りの強いギリシャ語を話す船員が、心配そうに近寄ってきた。こちらの地方に来ると背丈の高い人間がほとんどなのであまり自分の身長を気にしなくなるが、それはそれ、これはこれだろう。
そういえば士郎たちのほうを見ても、周囲の背丈に圧倒されている風に感じられる。イリヤやセイバーはむしろ慣れた感じで気にする様子はないが、それでもあまり見慣れない若干二名は緊張の面持ちで駄々をこね続けるイリヤを――あれはあれでイリヤの隠れたフォローなのかもしれないが――あやしている。
まったく。
ストレートが粋なイリヤにしては、珍しく隠れたプレーをしているじゃないか。
「あの、ミセス――」
「心配には及びません。広大なエーゲの風に、少しだけ酔いしれただけですから」
社交的な笑顔で答えると、戸惑い気味だった船員は急に顔を赤らめて俯き、「し、失礼します」とそのまま場所を後にしていった。やりすぎただろうか、そこまで魅惑させるほどの顔を作ったつもりはなかったんだけど。
しかし目下考えることは船員にも言ったとおり、この地中海についてだ。
海の神が棲む神海、エーゲ海。
その地上では様々な文明が栄え、滅び、伝説となった聖戦や逸話が数多く存在する場所である。
地上を言えば戦女神のアテナ、トロイア戦争のアキレウス、海へと消えたアトランティス、ああそういえばあの男が使った真名もトロイア戦争に因んだものだったか。
数々の伝説は時を越えて今も多く語り継がれ、古書として流星の如く流れた戦記を収めている。その全てはまさに、時代を決めた出来事に相応しいだろう。
だが。
ことエーゲ海上の伝説といえば、知られることがほとんどない。
クレタ島付近の人魚伝説他、アトランティスが沈んだ場所とされる位置、沈没したオデュッセウスの軍船。いいとここのくらいか。
地上に比べて少ないのは、海上での戦闘や駆け引きと言うのがないというのも間違いではない。しかしそれ以上に、海の神は戦を好きではないのだ。
ではなぜそんな神が島を沈めたり船を迷わせたり、やたらと人間を困らせることをするのか。
簡単なことだ。簡単なことだが、非常にあれというか……。
「ねぇねぇ、そこの魅力的なおねーさん」
今度こそは流暢なギリシャ語が耳に届くが、あえて無視をする。早々自分が誘われているのかと思えば尻軽だろうし、かといってきょろきょろすればはしたない。
慌てず騒がず。まずは自分ではないと思いつつ、現状の姿勢を維持しておく。二度も誘われるようであれば、そのときこそ振り向けばいい。
「ねぇったら。そんな魅力的な水着を着ていながら男が声をかけないなんて、ここの男は見る目が無いね。でももうちょっと振り向いてくれてもいいんじゃないかな」
三十点。
女を褒めずに水着を褒めるとは何事か。
「……なんでしょう。生憎と子供を相手にするほど暇ではないのですが」
「っと、ひどいなあ。水着を褒めたのがそんなにいけなかった? ボクの言葉は水着以上にキレイなお姉さんにしかかからないっていうのにさ」
「では今度からナンパをするときは先に女性を褒めてからするが吉でしょう。初めての経験だからといって、それを許容できる気持ちは持ち合わせておりませんので」
「お姉さん随分長い髪してるんだねー。手入れ大変でしょ」
人の話を聞けよ。
「うわっ、こんなにつやつやなの、地元でも見たことないよ! モルジブの海に負けないキレイさだね」
容姿は10台前半、というよりは中学生のような立ち振る舞いだが、知識は随分と博識のようだ。
地中海のように深い蒼色の髪をしたこの少年は、どこかのキャラと被る以外は、どこか必死さを感じさせる。場慣れしていないというか、空気の読めない子というか。
「ギリシャ語を話すというのにモルジブを知っているとは、随分と文献などに興味が向いているようですね」
言った後で後悔した。
適当に言葉を濁してナンパから脱出するはずだったのが、こちらから興味を惹いたように水を向けてしまったのだ。当然の如くやったと顔を綻ばせる少年は「うんうん、実はね」と嬉々として話を続けようとしてくる。
そんな気分じゃないのに。
「僕の友達に凄い博識な奴がいてさ、そいつがよく世界中の面白いことを話してくれるんだよ。海の話とか、地上の話とか、この世とは思えないような場所とか」
「なるほど、凄いのはあなたではなくその者でしたか」
「あっ、ひどいなー。ボクだって結構色々な知識を持っていたりするんだぞ? 例えば……」
「例えば?」
「例えば……そうだなあ」
パッと出てこないのか。
本当に、空気の読めない子だ。
「もしやあなた、モルジブくらいしか知らないのでは?」
「そっ、そんなことないよ! ニューオリンズと聞かれたらジャズって答えるし、ギリシャで言えばパルテノン神殿なんて超が付くほど有名だよね!」
「なぜニューオリンズが出てくるのか分かりませんが……必死さは感じ取れました」
「ひ、必死とか言うなよっ!」
意外と絡める子だな。もしかして昔は苛められっ子だったのかもしれない。
すでに涙目の少年を弄るべきか……まあ私のキャラ設定上、ここはもう少しだけ弄っておこう。
「ではパルテノン神殿に関した逸話を聞かせてもらえますか。「蒼明」で「白識」な人」
「うぅ……今明らかに馬鹿にしたよね? いいよっ! 絶対凄いって言わせてやるからな!」
なんでこいつはこんなに必死なのだろう。周囲の人間も気付き始めたか、遠巻きに見て忍び笑いを始めているほどだというのに、当の本人はまったく気が付いていない。
「えー、コホン。パルテノン神殿っていうのは昔の偉い人、名前は忘れちゃったけど、凄く古い人が建てた建造物なんだ」
「紀元前もの話ですから文献が残っていなかったのでしょうね」
「何で知ってるのさ!」
「知ってるも当然です。私もそれなりに調べてきましたから」
それよりも私がギリシャ語を話していることから気が付こう。
「うー、話を続けるよ? パルテノン神殿がその存在を知られ始めたのは建造から千年近くたったあくる日、ペルシャ人によって発見されたんだ」
話の内容はこんなところだ。
遠い遠い昔の話、ギリシャ最古の名も無き建築者が神を祀るために、ある建造物を建てるよう当時のギリシャ支配者の王に命じられた。
それはまさに神がギリシャの大地を守るため、果てはこの先の繁栄を築くための非常に重要な命であることを、建築者は誇りに思い、一つの小高い丘に建てた。それが現在のアテネに位置するアクロポリスである。
アクロポリスとは小高い場所のことを示し、パルテノン神殿からはアテネの街を一望することもできる。高い位置から見渡せることから、街の名に由来したアテナ神が街を守る意味で建てられていることは自明の理。
そんな神殿を作ったにも拘らず、古来の人間は神殿を襲い、略奪し、破壊し、昔の面影というのを無くしてしまったらしい。現在でも復旧活動は行われているらしいが、それでも元の形状には戻らないだろう。悲しくも時代の流れというのは、得てして形を残さないままにすることはできないのだ。
「もともとパルテノン神殿はギリシャ人が神を崇めるための象徴的存在っていうのもあるんだけどね。破壊されてしまった当時の民族はその凄惨な光景に、一ヶ月以上まともに動くこともできなかったそうだよ」
「それだけアテナ神を祀る神殿が破壊されてしまったというのは、彼らの神に対する冒涜以上に、神が盗賊どもに負けてしまったという想いからだったのでしょうね」
得てして神という存在は、昔の人々からすれば自分を守るための存在であり、崇める対象に等しかった。
人は神が創りし子であり、神は人々の親にある。人は神のために動き、生まれながらに背負った罪を、自らを清めることによって、その元に返れるように常に信仰を忘れようとはしないのだ。
その親にある神の元に、神を信じぬ愚か者共が進攻したのだから、彼らの心境は火を見るより明らかなことだろう。
深い悲しみと絶望。
罰を与えるであろうと思った人々は、起こらぬ天災に神の存在を疑心し、同時に人々を哀れに思い、自らの行いに対して深い自問を繰り返す。
「くだらないですね」
「ん、神様に対する信仰心は、あなたには無かったかな?」
「いえ、神はいますよ。もちろんそれは絶対です」
神たる存在を目にしていた私が言うのだから。
「ただ私から言わせてもらえば、神を信じていた古代ギリシャ人が神の存在を疑ってしまったことについてです」
「へぇ……信じていたものが人々の思う罰を与えないことを、疑念に思うほうがおかしいってこと?」
「そうは言いません。しかし人々が祀り上げる神々というのは時間など皆無の存在。秒たる瞬間に彼らへ罰を与えようとするならば、神にとってその秒とはまばたきの時間すら生ぬるいほどなのでしょう」
「すべての神は、いつも我々を覘いていらっしゃる。なんて言葉もあるけどね」
確かに。
しかし、だ。私の知る神はそんな真面目な存在ではなかった。
気分屋で、飽きっぽくて、ケンカ早くて、強くて、およそ真面目を語るにはできないものだ。
良い神ではあるのだが。
「あの神殿はしかし、今でこそアテナ神を象徴する存在ではありますが、もとは神を定めなかった神殿なのでしょう?」
「お姉さんよく調べてるね。ギリシャの人でもそこまで知ってる人はいないのに」
散々酒の肴に愚痴を聞かせてもらいましたからね。
「もともとあの神殿は、何某かの神に譲渡するための神殿だったんだ。それが今は有名知的、様々な神にあらせられるアテナ神と――」
「海を司る神、ポセイドンなのでしょう?」
「そっ! お姉さんも博識だね。その知識の深さにボクも軽く嫉妬しちゃうよ」
現実に体験したことだとは言えないが、現代にまでその諸所が伝えられているというのは、ある種の研究者たちによる賜物なのだろう。
なかなか侮れないものだ。
「とはいっても、一説の中でポセイドンは他の地を得るためにアテナとは争わなかったという話もあるんだけどね」
「それはないでしょう。あの高慢不遜、欲しいものであれば何でも手に入れようとする彼であれば、相手が守護神であろうとも真向からぶつかるはずです」
海を支配したのにも拘らず「俺の心は海をも越える世界を治めたいのだ」とか言いながら豪傑に笑っていたのが今は懐かしい。
もしアテナとの話し合いで折り合いが付いたならば、もっと小回りよく様々な神として崇められていたかもしれない。同時に、それを嫌うのもあの御方たるところでもあるべきか。
「そうかな、確かに気性の荒さはポセイドンの代名詞、手にする三矛の槍は荒地に潮の泉を沸かすほどの能力を持っているけど」
「トロイア戦争のときも「よし、俺はこっちに賭けるから、ゼウスはこっちに賭けろ」と言って、自らの能力を活かして賭け事を有利に進めたりする御方です」
確か、その後ゼウスにイカサマがバレて暫く大嵐が止まらなかったが。
「……」
「なにか、変なことを言いましたか?」
「いや、お姉さんってまるで見てきたかのように喋るから、ボクもちょっとドキドキしてきたよ」
しまった。言い過ぎたか。
見ればサクラ立ちの姿も無い。どうやら甲板からホールに移ったようだ。
「お友達も、どうやら室内に戻っちゃったみたいだね」
「え――」
「あ、そうだっ。お姉さんにこれをあげるよ」
それは不意の出来事だった。
振り向いた先にいる少年の顔、数メートルも無い。少しでも船が揺らげば顔がぶつかりかねない位置。
両手は頭の上を通り私の首に。
なんだと思う暇も無い。ただ少年は私の距離をいつの間にか縮め、そしていつの間にか私の首に手を回し、いつの間にか首飾りをつけられていた。
英霊の私ですら、気付くことができない。
それがどんなに異端なことか。
「……海のお守り、ギリシャ近海で取れた珊瑚礁なんだ。珍しいんだよ? 地中海で取れる珊瑚礁なんてほとんど無いんだからね」
「あっ、ありが、とう――」
「それじゃボクはこれで。お姉さんたちに海の神様の加護があらんことを」
手を振って去ろうとする後姿に、思わず私は声をかけそうになる。
ちょっと待ちなさい。しかし声は、口から出ることを拒んだ。
既にその背中は、私の視界を捕らえることなく消えていた。
ホールに向かい際。
一人の女性が、すれ違いざまに言った。
「あなたにとって、マトウサクラという女はどういった関係ですか?」
私は答えた。
「あら、ライダーどこに行っていたの?」
ラウンジはさながら超豪華な造りになっている。
赤い絨毯を敷き詰めた上にはいくつものテーブル、山のように重ねられたグラスには、頂の位置から水が溢れんばかりに流れ出ている。
壁には何を思ったか小さく光るものが散りばめられているようだ。ダイヤか? いやそこまで豪華ではないか。もっとも豪華といえばこの上を見れば十分なのだし。
その上は巨大ともいえるほどのシャンデリア。黄金色の明かりは周囲を輝かせ、気分を盛り上げるためには十分すぎるほどの装飾であろう。
一見して無駄のようにも思えるが、よくもまぁこんな豪勢な船を作ったものだ。
「外で久方ぶりの地中海を除いていました。昔とは随分変わってしまいましたが」
ホールにいる人々は皆ドレスを着ていた。赤一色にまとめたもの、ライトブルー、肌色。それぞれがそれぞれに似合い、そしてどれも可愛らしかった。
外はもう日付を変える間近ともあって暗い。深夜になった両面の海は蛍のように光、一方では全てを吸い込むが如く暗闇が広がっている。
とても静かな夜、とても深い暗闇の中で、場違いなほど静かなチェロの響く音がホールにこだまする。
音に酔いしれる人、女性を見て声を上げる男、英国紳士そのものの格好を見て惚ける女、そのどれもが昔ありふれた光景で、しかし私には無縁の産物になった事柄であった。
そんな私は?
私はもちろんドレスを持ち合わせていない。この背丈のせいもあってか、それに見合った服が用意されていなかったというのがまぁ、一番の原因だろう。
仕方の無い話だ。これだけは。
「ライダー。ホールに来たっていうのに、普段着っていうのはどうなの?」
「仕方ありません。私に見合う服のサイズが無かったもので、こればかりはどうすることも」
そう。無かったのだから着る事もできまい。可愛く見られることも、この身体ではもともと不可能なのだし。
「いえ、ありますよ?」
「……サクラ」
本当にいやなタイミングで言ってくれる。
「ライダーは、「私には普段着が一番合います」とかいって、ドレスを持ってきた船乗員を追い返しちゃったんです」
「なんでよ。あなたくらいの背丈でも可愛いのはたくさんいるじゃないの」
振り返って周りを見るリン。ターンテーブルに乗っている料理を丁寧に取っている人、胸元に花のリボンを結い合わせている姿は、背の高さが私とほぼ同じくらいでも可愛く見えた。
窓の外を静かに見つめるブロンドの女性も、髪に小さなヘアピンをつけて長い髪をツインテールにしてとても可愛らしかった。
「……ね?」
「いいたいことはわかりますが、私はこれでいいのです」
「姉さん、実はライダーなんだけど、もしかしたら」
ヒソヒソと目の前で内緒話をする仲睦まじき姉妹たち。
その話題が自分自身ということに戸惑いを覚える。いやそもそも内緒話の種の前でしないで欲しい。
内緒話の途中で不思議な顔をしていたリンの顔がすぐさま変わり、同時に目を細めながら「ハハーン」とこちらを流し見た。
「人を魅惑する目があるのにも拘らず、ライダーって意外と臆病だったり?」
「なんのことでしょう」
「ほら、ライダーってドレスを着ちゃうと一際目立っちゃうから、嫉妬されるのが怖いんですよ」
「違います。私ははただ……」
「ただ?」
危うく口に仕掛けた本音を、強引に喉の奥に引っ込める。
「自分には合うドレスがなかっただけです」
「別にいいじゃない。なにを着ても似合うプロポーションをもってるのに、まだ上を目指したいの?」
わずかに視線が胸元にいっているのは言わない。
「いえ、その……サイズがですね」
「サイズですか」
わずかに雰囲気が暗くなったのは言わない。
「なら、サイズが合えば着るのね?」
「その圧倒的なまでの美貌を周囲に披露するのね?」
え、えぇっと。
沈黙して、気が付く。この少しだけの沈黙こそ、彼女たちに与えてはいけない弱さだったことに。
「じゃーん!」
「実はライダーのサイズに見合うドレス、一着持ってきちゃいました」
「――はっ?」
「ライダーなら黒、にしても可愛さってのは出ないだろうから、薄青色のドレスなんだけど。赤じゃ流石にキャラ被っちゃうし」
「わたしはもうピンクを使用していますから。ライダーでしたら絶対これだって、二人で決めたんですよ」
満面の笑顔で罠を張る二人が、逃げ場を潰していく。
「いえ、ですから私は――」
「着るんですよね?」
「確かにサイズがないとは言いましたが着るとは――」
「わたしたちの恩義を無駄にするほど、できてないわけじゃないわよね?」
「それはそうですが――」
「じゃ、いきましょ。夜の船上のパーティーなんて一度味わえるかどうかなんだから」
「待ってください。私は――」
「待つ理由はありません。行きましょう」
私の手を引いて二人のトオサカは走り出す。向かう先はドアの向こう、更衣室。
勢いよく開いて私たちは鏡の前に立ち、一気に上着を脱がしてあれやこれやの試着を開始する。
「ちょっときついですかね?」とか「それくらいのほうが魅力的よ」とか。言いたい放題な二人の勢いに私は成す術が無かった。
嗚呼、サクラ。
いつの間にあなたはそこまで積極的になったのですか?
そんなにまで積極性があるなら、士郎にももっとアピールの場があるのではないでしょうか。
頭の中に士郎の顔を浮かべて、すぐに打ち消す。そうだった、アレは常識はずれなまでに鈍感な男でした。
いくらサクラが積極的に前に出ても、士郎が相手ではアギア・ルメリの砂の如く掬った手から漏れていくだろう。それくらい鈍い男なのだ士郎という男は。
そう考えるとなんだか士郎が全部悪い気がしてきた。そもそも士郎がしっかりしていれば私がこう悩むことも無いはずなんだから。まったく、士郎という人間性にはどこからとも無くというほどの悪意が芽生えつつある。
あの男がもっとしっかりはっきりしていれば、ここまで悩む必要も無いのに。意識の片隅で考えていた言葉がポッと蝋燭の火のように付くと、なにを考えているんだ私はとすぐさま消そうとする自分。まあ火は消えてくれないのだが。
士郎、士郎、士郎。
サクラというものがありながら、私自身が士郎に惹かれているのか。どうして私はそう……。
「はい、できたわよ。胸のほうきつかったら……」
「どうしました姉さ……ん……?」
手際の良い作業が終わりを迎えて、二人は私の前に出てこちらを見やり、同時に言葉という言葉を一切合切無くしてしまった。
何か変なところがあっただろうか。鏡を見る限りドレスとしてはキチンと着られているようで問題はなさそうだし、髪留めもこれでもかという感じに彩がある。特にこれといった部分といえば……やはりこの身体か。
自己嫌悪。しかしきてしまったものは仕方が無い。もう後に引くことはできないのだ。ひどい強引なやり方だが、前に進むしかもう道は残されていない。
一歩。
そういえば靴を履き替えるのを忘れているな。どうでもいいか、サーキュレイスカートでは足元まで見えることはまず無いのだし。
緩んだ表情は隠しておかないと。浮かれたままの顔を披露してしまってはせっかくのドレスもただの飾り物になってしまう。ドレスはキレイなのだから。
一歩。
サクラ。本当に、なぜあなたはこの旅行に限ってこんなにも積極的なのですか?
私がドレスを着ないのも、周囲の輪から外れていたのも、不用意にコンタクトを取らなかったのも、私はあなたと士郎が傍にいられることを望んだためなのに。
なのになぜあなたは私を構いますか。
一歩。
私のことはいい。何度いった言葉か。
でもあなたは私を構った。一人は辛いから、と。
違うとは言えない。その通りだから。だけど私は私のことより、サクラ自身のことを気にして欲しかった。
暗く暗く闇すらも飲み込んでしまうほどの深い漆。独りで漆と闘い、苦しみ、悶え、幸せとは程遠い位置にいたあなたに、精一杯の幸せを感じてほしいのに。
何度も何度も何度も何度も、気が遠くなるほどに気が狂いそうになるほどに気が違えるほどに気がふれてしまうほどに壊れ続けた存在。
サクラ。
なぜあなたはこうまで、私の背を押しますか。
がちゃり。
扉の開く音。光の道。
ホールのざわめきが一層高くなるように感じる。視線は私を突き刺し、時折口笛のようなものが混じる。
気恥ずかしいという思い。それ以上の期待と不安が、胸の内を抉る。
足は重く、肩には重圧。俯くこそしないが、それでも大勢の人間に見られるというのはあまりいい気がしない。
聴こえない程度のため息をつき、視線を彷徨わせる。こうなればやけだ。行くとこまでいってしまえ。
室内の片隅に目標を見つけ歩く最中、幾度と無く声をかけられる。その全てを無視して、迷いの無い足取りで私は士郎のいる前に立った。
一瞬彼士郎はこちらを見て、すぐさま何だライダーかといった表情で途中であろう器の上に料理を運ぶ手を進めようとし、いきなりこちらを振り返った。
「ら、ライダー!?」
「……はい」
信じられないものを見ているように彼はまじまじとこちらを見上げ、死にかけの魚の如く口をパクパクさせている。途端急激に顔を赤らめて、なんて言葉をかければいいか分からないままに、ただずっと私を見てしまっていた。蛇に睨まれた蛙、なるほどいいえて妙だ。
視線が外れないことに私も動揺し、少しばかりの恥ずかしさを覚える。若干俯いて「……似合いますか?」と言ってみた。
「あ、えっ、その……にに、似合うとかもうそんな次元を超越しちゃっているというか、周囲が劣化して見えるほどキレイってあーなんていえばいいんだ俺」
いいたいことはわかる。
わかるが、もう少しはっきりいって欲しい。
「士郎」
「な、なんだ?」
「……私は、可愛いですか?」
「かっ可愛いなんてもんじゃない! もう可愛さもキレイさも含めてパーフェクトだよ!」
可愛い。
かわいいかぁ……、えへへ。
何百年ぶりに言われたことだろうか。というか可愛いと正面きって言われたことなど一度きりしかないのだが。正面きって言われるとなんだかこう、こしょばゆい。
そんな胸のうちを決して表には出さず、顔は少しだけ平静を取り戻して向き直る。
「そうですか、ありがとうございます」
長居は無用だ。これ以上士郎の前にいればまた妙に誤解が生まれてしまう。
士郎は私といていい人間ではない、人の心をもった人間といるべきなのだ。対象がリンだろうと、サクラでも、二人でない人でも。
相手はまだ決まらないだろうが、士郎達には時間がある。私が惑わせて、彼らの時間を削ってはいかがなものだろう。ここは一線からみを引くべきだ。引いて、引いた先から何かを見つければいい。
そうだ。私には今の一言で十分。可愛いといってくれた、それだけで十分だろう。もう一生ないと思っていたこの気持ちに、正面から言ってくれた士郎やサクラたちに、感謝を。
遠ざかる。士郎の視界から離れるように。
「ライダー、ちょっとまってくれ」
振り返ってはいけない。止まってはいけない。
前者は成功しても、後者には及ばなかった。
去りたいのに、邪魔をしたくないのに。神はそれを許さないのか。
「……なんでしょうか」
どう答えるか迷いながらも、振り返らずにそう答える。
「その、すまなかったな」
「? 言っていることがわからないのですが」
「あー、えっとだな。今回の旅行、桜が連れて行きたいって言ったんだろ? ライダーもしかしたらそれで今日元気がなかったんじゃないかと思ってさ」
「――いえ、それは杞憂です」
「よかった。なんだか耽ってるってみんな心配していたんだぞ」
甲板のところを見られたか。
「そうでしたか。ご心配なく、懐かしさに少し想いを馳せていただけですので」
「なんかあれば言ってくれ。俺たちでもできる限りのことはするからさ」
にこやかに笑みを残して、今度こそ歩き去る。
途中少なからず声をかけられるが一切無視、淑女らしからぬ行動に普段なら頭を悩ませるところかもしれないが、それ以上にこの姿で士郎と会話をすることが自分でも気付かないほどに緊張していたのだろう。
向かう先は入ってきた入り口、ピンク色のドレスの似合う少女の前。
意地の悪そうな顔をして、隣ではチェシ猫顔を必死に隠しながら去っていく赤い悪魔。あぁそうですよ、やられましたよ私は。
私だってずっと昔から可愛い服が着たいとは思っていました。もちろん今回のドレス姿だって用意してくれたのは嬉しい。素直にそれは喜びます。ありがとうサクラ、リン。お心遣い感謝します。
しかしですね、なぜ私を士郎の前に行かせようと暗に促しますか。
別に意識して士郎の前に行ったわけではない。ドレスを着たら間違いなく周囲がどよめくだろうし、その分あちらこちらから望んでもいない声がかかるだろう。ゴルゴンの末女、確かに身体のコンプレックスはあるが、美女とまで謳われたことは我ながら少しは自負しているつもりだ。
その上で周囲に声をかけられないようにするには、足早に意中であろうと思わせる必要がある。つまりは男性の下に駆け寄れば良い。
ああ、確かにそう思いましたともサクラ。あなたは計算していたのでしょう、この結末を。
私が士郎に手を出さないことも、その上で私を士郎に向けさせたのも、私の気持ちも分かっていながら――。
「キレイでした、ライダー」
「――ッ!」
唐突に、金の声が横からかかった。
セイバーだ。銀に近い純白のドレス、凛とする顔つきはタキシードでも十分似合うであろう出で立ちで覆われている。
小柄な女の子、中世的な表情。どれをとっても王という名に相応しいほどの雰囲気を服の上から纏っていた。
「……あなたからそのような言葉を聞くとは思いませんでした」
「キレイなものをキレイといってなにが悪いのでしょう。あなたに必要なのは可愛いという言葉かもしれませんが、しかしそれは絶対というわけではないのでしょう?」
「わけのわからないことを。可愛いと言われることにそこまで固執するほど、私は落ちていませんよ」
「ではあなたのその姿も、一つの長所ではありませんか」
知った口を利くなっっ!
「――気分が悪いので、部屋に戻らせていただきます」
「お気をつけて。サクラには私から言っておきましょうか?」
「必要ありません。私が言うべきことですので」
言って、すぐそばにやってきたサクラは嬉々として声をかけてくる。
「どうでした? ライダー」
多分。これはあとで考えたことだが。
きっとセイバーもどこかでわかっていたのだろう。この結末が一種の分岐であることを。
物語が架橋へ進むためのきっかけであり、そのターニングポイント、何某かの基点となる瞬間だと。彼女はきっと本能に近い感覚で察知したに違いない。
だからこそ私の行った行為に対し、何も言わず、止めようとせず、ただ見ているだけに止めた。
乾いた音。それはホールの喧騒を埋めるにはほど小さい音である。
周囲の人間は音のしたほうを振り向き、わずか硬直した後どうしたのかと視線を固定する。
ある者は内緒話を始め、またある者は戸惑いながらも心配そうにこちらを眺め、またある者たちは楽しそうに頬を歪めている。
呆気に取られるリンと士郎、やっぱりこうなったかと達観しているイリヤは、片手にジュースを持ちながら窓の外を見ていた。
サクラは、
「ライ、ダー?」
「見損ないましたサクラ」
手に残る感触が心臓を抉る。
頬を赤くしたサクラが背後に消える。
上気する私の吐息。逃げ出す足音。自分の音。
乱暴に扉を開け、明かりの少ない廊下に飛び出す。向かう先は考えていない、ただとにかく今はホールから去りたかった。
なぜだろう。なぜ私はあの場所から去る必要があったのだろう。
酷いことをされた、私にとってとても辛いことをされた、泣きたくなるほど辛かった、膝をくっしてしまいたくなるほど辛かった。
だから?
違う。そうではない、私が辛いと思うことなど昔に比べればまったくの些細なことではないか。
私はただ怨んだのだ。サクラのした行為に、暗に「自分はお前と違う」と言われたと思ってしまったのだ。
不明確な拒絶、しかし私には的確に拒絶を示した意味。
震える喉元、吐きたい言葉を必死にこらえながら私は駆けた。
うるさい、馬鹿、死ね、見るな、汚らわしい、消えろ、消えろ、消えて、消えていなくなってしまえ!
お前なんてこの世に存在してはいけない。存在することすら罪深い、貴様は消えてなくなればいいんだ。
――窓の外はまだ暗い。
どこをどう走ったのかは記憶にない。
廊下を走っている最中下を向いていたせいか、通ってきた道はいつの間にか甲板に続く道だったようだ。目の前には漆黒に塗り固められた大海原と相対する一面の星空。
星空に象られた敵を見る。盾を持ち、剣を仰々しく構えたその姿は、いっそのこと殺してくれといわんばかりの面持ちがあるように感じられる。
普段感じないようなことですら、今の私には敏感に感じ取ってしまうようだ。それもマイナス方向に、良くない方向へと思考の波が傾き、自分を波打ち際へと追いやった。
ため息すら出ないほど心はひび割れて、後悔の念が渦を巻く。どうしてという疑念と、やってしまったという責念と。
倦怠感が身体を支配する。どうしようもないほど全てを投げ出しそうになり、いっそのことこのまま身を投げればどんなに楽なことだろうと思い、
「なにをしているんですか、オネーサン。こんな時間に」
流暢なギリシャ語は耳に心地よく、同時に煩わしかった。
「……すみませんが、今は誰とも話したくないのです。帰ってください」
浮かんでくるのはサクラのこと。
あのときの頬を叩いてしまった右手を憎み、右手を動かしてしまった思考を怨み、思ってしまった自分を憾む。
もっと違った風にできなかったのか。叩くでもなく、しかし言い聞かせることくらいは私でもできただろう。
なのにしなかった。しようとも思わなかった。
なぜ――
「僕が思うに、オネーサンは心の底でサクラさんのことを恨んでるんじゃないかな」
顔の見えない距離。振り返った先で少年はこちらに近づかず、まるで世間話をするかのように語りだした。
「深層的な位置づけを言うのであれば、オネーサンはサクラさんにとってなくてはならない存在だよ。それは友人ではなく、マスターとサーヴァントの関係ではなく、親友や家族といったものでもなく、ある種一心同体といった、心のつながりみたいなものを二人は感じあっているはずだ。その中で二人は常に一緒に行動ができ、考えることを分かち合い、互いのマイナス面を支えあうことで今までやってこれた。それこそ人間らしい生き方としてね。もちろんこれが間違っているとは僕は言わないよ。言わない、言わないけど、支えあうことは間違っているよ。何せあなたは英霊なんだから」
私は、言い返さない。
「もともと英霊が人間と共に過ごすこと自体がこの世界の歪みを生じている。協会にしろ教会にしろ黙ってはいないだろうが、どこまでそれがカバーできているかはあの赤い悪魔の未来にかかるんだろうね。しかしそれだといってもオネーサンの未来は無いに等しいよね。だって英霊は僕の知っている限りあなたと、もう一人この船にいる。しかもその人はあの赤い悪魔の使い魔と来た。間違いなく協会の観察対象はあの子になるんだろうね。オネーサンが現世に留まる理由なんて無いんだから。じゃあ何で現世にオネーサンがまだ存在するのか。それはオネーサンの存在を強く願う女の子がいるからに他ならない、それがあのサクラって娘だよ。オネーサンはそれを知っているからこそ未だ現世に存在を許され、大量の魔力をサクラさんから頂いている。無論自分でもどうにかして魔力供給をしながらだけど、吸血行動のみでは限界がある。当然それは自身へのストレスとなりひいては自らの殺戮衝動にも拍車のかかる行為といっても良いはずだ」
言い返さない。
「サクラさんがいることによってあなたはその存在理由を現世に留め、今こうしていられる。そして英霊という存在でももともと神格化していた存在でも、感情は常に存在しえるもの。故にオネーサンは距離を置いた。二度と昔のような過ちを繰り返さないように。神に名だたるアテナの怒りを買わぬように。美しき髪を蛇に変えられ、魔眼と称されたその眼を与えられた自身を、これ以上醜い存在に変えないために。さて、さてさてさてココからがオネーサンの想う本当のところだよ。オネーサンは何度も離れようとして、しかし離れることを許されなかった。それはサクラさんの命令にも似た行為でもあり、もう一人の異性による無頓着、無意識、無自覚たるところから生み出された手解きによって、オネーサンの心を縛った鎖を解いてしまった。それは良いことだよ。だって心に鎖なんて巻いていたら身動きが取れないものね。人間でも英霊でも神でも悪魔でも、欲望に縛られて何かを失うなんて愚かとしか言いようが無い。その上であのシロウって男は良いことをしたよ。感謝したいくらいだ。だけどそれからがいけない、いけない、よろしくない。神格ともいえるオネーサンを放っておいて、自分の影といえる存在に心を向けているのだから。オネーサンは平静を保っていても、どこかで焦っていた。自分の新しい感覚を影に奪われる。奪われたくない、奪って欲しくない。しかしそれでも自分は英霊、常に一緒にいられる存在ではないのだと自らを抑制し、人間であるサクラさん、リンさんに道を譲った。だからこそ、あなたは身近にその温もりを感じながらも、前に出るのを許されないことに小さな歪を心に持たせてしまった」
言い返さない。
「しかし歪はとても小さなものだった。精神の大きさに比べてその歪は極小で、普段に行動している分にはまったく影響の無い程度のものだ。だからこそオネーサンは気づくことも無く、影に気づかれることも無く、誰かしらにも気づかれることも無く……いや、一人は気付いていたのかもしれないね。しかし結局は気付かれなかったわけだ。そうこうしているうちに物語りは旅行の話へと移っていく。歪が大きくなる物語へとね。そもそもおかしいと思わないかい? たかだか商店街くじ引きの当選で海外旅行、しかもこの豪華客船の上で食事もパーティーもついてかつ数日間のクルージング、どう考えても一般旅行会社にしてはやりすぎの企画でしょ。だというのにサクラさんは喜んだ。おそらく普段のサクラさんであれば一発でこれがおかしいと勘付いただろうね。それでも喜んだ理由は何か、それは海外旅行の行き先が地中海だと記されていたからだよ。地中海といえばオネーサンにとっても縁の多い場所、仕事で家にあまりいないオネーサンを気遣って、暫くハネムーンを楽しんでみようと思ったのは彼女の本心だったんだろう。だからこそサクラさんはオネーサンに行き先を伝えなかった。場所を言えば間違いなく「行かない」と一点張るのをわかっていたからね。その点ではサクラさんの口調は凄いよ。まるで「オネーサンのお姉さん」並みに。口だけはとにかく達者だ、あれであれば周りに敵を作ることも、同時に味方を作るのだって簡単なように思えるけどね。それこそが人間と人間を止めた者の違いなのかもしれない、人は皆感情を持って行動を取り、そして善と悪を区別して義を決め付ける。魔術師ともなれば善も悪も関係なく進めるからダメだよね。彼らは人としての本分を捨て、どこか人間でなくなってしまっている。聞こえをよくすれば天才に近い人間失格だろうけど、僕からすれば魔術師よりもサクラさんのほうがよっぽど人間として生きていると思うよ。だって彼女は一度人間を捨て、また人間になった人間なんだから。でもあなたは違う。まだ人間にも人間失格にもなっていない、中途半端な存在だよね? だからこそサクラさんのもう一つの企画は、この旅行によってオネーサンの過去の想いを越えてもらおうと願っているんだよ」
私は――。
私は、言い返せない。
だから、と少年は指を一つ鳴らし、
「これから日を超えるまでは、正直になっても良いんじゃないかな。自分の辛いこと、悲しいこと、泣きたいこと、笑いたいこと、取り返したいこと、願いたいこと、過去は過去と想うのではなく過去を乗り越えていくことを想い、そして未来に繋ぐために現在を象るのは、僕は良いことだと思うよ」
どこからともなく響くのはなんだろう。甲板の震え、尋常ではないであろうその揺さぶりは、まるで大気が悲鳴を上げるかのように轟き叫ぶ。
「あな――」
「ジャスト一時間、船が沈むにしては十分だよね。世界に広がる海の中で、この船は少し大きすぎる」
揺れは徐々に凄みを増し、普通の人間では立っていられないほどだろう。
間違いようも無い太源
そして――。
「笑ってよオネーサン。僕の愛しき罪人
地平線の先。
映画の世界だけとも思える巨大な津波は、確かにこの船目掛けて突進してきていた。
「君にとって、マトウサクラという娘はどんな関係なのか――」