船上の風は懐かしく、同時に肌寒い。
降り注ぐ紫外線は夏を感じさせ、船と並行に進むカモメたちは優雅。
群れを成して飛行する彼らは、私たちに遊びを求めているのだろうか。言葉のわからない私たちではそれを判断することは難しい。
船体に当たる波の衝撃が足に響く。どこか昔のガレオン船を想像するが、思えば私の乗っていた船は小さな木でできた小船であった。
あの小船は最悪だった。いざ帆を張って進みだしたかと思えばすぐに浸水してくるし、船上で軽々しく動こうとすれば今度は上から水が入る始末。
食料難にもあって、手に持っていた干し肉も次第に底をつけば、海に潜って魚介を調達。モリなんてない、手づかみだ。
どうかしていると自分でも思う。絶世の美女とまで言われた自分が、海を彷徨い挙句の果てに海へと素潜りなど、かつてのペラスゴイ人が見れば、目を見ずとも固まるに違いなかろう。
何はともあれあの島にたどり着けたのは運がよかった。それは海の神の導か、天のいたずらか。どちらにしても天人に運命を左右されたと思えることだ。
しかし現代の技術は進んでいるもので、船体は高く、食事も勝手にでてくるし、何より安定性がある。
聞けば船というのは横倒しになっても元に戻るよう作りになっている。それは船の最下層にある骨組みの作り方に工夫がなされており……いや、船の話は士郎あたりにでも任せよう。
ともかく、私たちは現在船の上にいる。それも豪華客船、ラウンジを振り返れば多くの人間が社交を楽しんで、片手にワインを遊ばせながら笑っているわけだ。
「ライダー、こんなところで何をしているんです?」
胸元の開いたシャツに空色のカーディガンを羽織ったサクラが、私を見つけるや小走りに近づいてきた。
「懐かしいところに帰ってきてしまったと思いまして」
ああ、と少し気まずそうな顔をしたサクラに、仕方ありませんと小さな笑いを綻ばせる。
もともと来る気はなかったが、今回は成り行き上、そう成り行きで決まってしまったのだ。
行かなくてもいいとサクラは言ってくれたが、私はそれを良しとしなかった。
「昔を見据えるのも、もう頃合です」
「でも……」
大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
サクラも過去を乗り越えてきたのだ。そのサクラに私は教えられてきた、今度は私が実践する番である。
心に秘めた力強さは確かなもので、やるぞという想いが先行して思慮を追い抜こうとしている。
その分脆さが見え隠れしているのが、恐らくサクラにもわかっているのだろう。
脆弱な面、それは私の影に潜む魔の存在。
怪物の面で存在していた自分が、一転すれば堕ちてしまうという危うさの中で立ち向かわなければならない過酷さ。
確率は所詮確率、望みの役にも立たないが、すがりたい気持ちはある。
己に対する懐疑。
これこそが私自身に降りかかっている脆弱の源である。
もう一度、広大な海を見据える。
静かな青、寂しい蒼、優しい藍。
この奥深くに、あの方がいる。紛れもなく私『たち』にとって天上人であり、そして悲しみを与えてしまったあの方が。
手をこまねいている筈だ。
胸元に自然と手を当てる。
二度と帰ることはないと思っていた。自分の中でも帰ることをどこか遠ざけていた節があるし、同時に帰ることがないという思いにどこか安堵してた。
だが私は帰ってきてしまった。この濃い海原、エーゲ海に。
周囲に見える島々、クレタ、ミロス、南のナクソスはよく泳いだ記憶もまだ鮮明に残っている。
北を向けば何もない。ただそこには広がるギリシャの大地のみ。
しかし、確かに私の目にはそれが映っていた。
形なき島、鮮血神殿
あの運命に翻弄された日々、楽しかった日々、困ることの多かった日々。
全てを失った一日。
帰ってきてしまった。
この大海原、全てを置いてきた地中海の空の下。
――そう。
これは私、ライダーとサクラ達が経験したひとつの物語である。
――――――――――法螺貝の泪 ― a beautiful blue blue ―
一ヶ月前のこと。
私はいつものように商店街へとアルバイトに行き、お客を待つ退屈な時間を古書で潰していた。
深山商店街は新都の方ほど人通りが多いわけではないが、このあたりの中枢に当たる商店街になる。周囲にはコンビニエンスやスーパーなどのお店はなく、商店街に全てが集まっている集合地帯といっても過言ではない。
深山町の夜に人通りがまったくないのはこれが理由である。自転車で行く分にはまったく問題のない距離ではあるが、夜に出歩くにしては若干遠い。静まり返った住宅街の薄気味悪さも相成って、周辺住民の方々は昼間に一通り買い物を終える。そして夜は外に出ないというのがこの街ならではの「常識
そんなことからこの少し町並みから外れた場所にある商店街は、近所に住む老若男女全てが集まる場所といえよう。
ただいま商店街では夏のセール真っ最中、それに伴い二千円以上お買い上げのお客様には、一位海外旅行の福引が配布されるというなんとも豪華な振る舞い。
であればこれを逃す手はないと寄ってくる人の群々。果ては新都のほうや、他県からも来る人がいるそうだ。
まったく。
海外旅行をするのであれば、ちゃんとした計画性を持った上で望んで欲しいと私は思う。少なくとも大人の道楽で海外に行きたいといえば、子供の立場からすれば面白半分、しかし場合によっては言葉の壁などにより些か退屈にもなるだろう。
ああ、しかし学校という学び舎から離れられるのだから、そういった意味では子供も乗り気ではあるか。
陶器を布巾で磨きながら、外のほうに目をやる。
暑い日ざしが降り注ぐ中、子供たちは走り回り、大人たちは荷物を持って辛そうに歩いている。夏場になると体力の落ちる大人たちは、荷物の付加に若干腰を曲げていた。
室内の冷房が少しだけ心地いい。外の存在より、優越感に浸れるのは人としての性か。
いや、私は人ではない。サーヴァントだと一人で突っ込む。
苦笑。そういえばそうでした……。私はもう人ではないのだ。
最近はよく自分が人であることを忘れるときがある。士郎の家ではまるで人のように扱われ、食事も衣類も寝床も支給されている。
幾度となく英霊として呼び出された私も、ここまで懇切丁寧な対応を受けたのは初めてだと思う。食事も寝ることも私にとってはあまり必要でない事柄であるはずなのに。
彼らはそんな私の、私たち英霊の常識を打ち破った初めての人間だろう。
どこか、遠くのほうで鐘が鳴り響く。
誰かが福引で賞を得たのだろう。いまごろその者は飛び跳ねながら喜びを表現し、我が家にいる家族にこれを知らせようと大急ぎで帰ろうとしていることだ。
よくもまぁそんな道楽をやる人がいるものだ。
大体福引というのはなかなか当たらないからこそやる理由があるわけで。キチンと計算した上で宝くじ業者とこちらの出費を重ね合わせると、断然相手の方が得をしている。
これは大きな目玉商品を相手に見せ付けることで、合法的にお金をせしめているに過ぎないのだ。
くだらない。それであれば初めから海外旅行の券を買えばいいのに。
だが逆にその過程が楽しいというお客もいるのだろう。その心理は理解できなくもない。
なぜか。
その答えが、今まさに扉の前にいる。
カラリ。
「いら――」
「ライダーライダー! やっちゃいました。当たりましたよ一等賞!」
「おめでとうございますサクラ。一等とは福引のことですね?」
券を右手におおはしゃぎなサクラが、私の手をとって今すぐ小躍りしかねない。それほどの喜びようだった。
つまり、普通の買い物客がついでとばかりに行う娯楽でもあるのだ。
大家族ともなればお金の消費量が確かに多くかかる。そのためこちらが望んでいなくても向こうから福引券を配布し、溜まった分を日時の最後にでも放出する。
当たれば天国、負けてもともと。人生そんなものだと家路について夕食の支度を始めるのだろう。
ときたまの例外が今まさに目の前で喜んでいるわけだが。
「そうなんです。今日が最後の日だったんで宝くじを全部使い切っちゃおうと思ってやったんですけど、最後の一回でなんと大当たり。海外旅行の券をいただいちゃいました」
えっへんと胸をそらすサクラに、小さく微笑みをつくり返す。
「海外ですか。……どちらのほうに行くのですか?」
「えっと、確かヨーロッパのどこかだとは思っていたんですが、先方が行き先については追って教えるそうです。チケットの予約とかがまだ間に合ってないそうなので」
なるほど。
海外の旅行ともなれば前もって準備しておくのが通例ではあるが、チケットなどの購入に際しては本人の許可が必要となる。パスポートも作らないといけないだろうし、何より相互の準備期間というのが必要だ。
「ではその手に持っているのは引換券ですか」
「はい、追って連絡はしてもらえるそうなんで、それまでわたしたちは期限まで準備をしておけばいいかなって」
「そうですね。海外旅行ともなれば数泊は覚悟しないといけませんし、準備を怠らないようにしなくてはなりません」
言って予定を確かめる。
士郎の夏の予定はまだ空白だったはずだ。もともとアルバイトをしている士郎ではあるが、今年に限ってはセイバーやリンが士郎の家にいるため、結構な確率で家にいることが多い。
最近では私もアルバイトをしているので、家庭の食事に関してだけは問題はないだろう。もっとも、あの食魔人が出張らなければの話ではあるが。
「では士郎と二人で行けそうですね」
「えっ?」
「私のほうはアルバイトがありますから。せっかくのバカンス、楽しんできてください」
「ちょ、ちょっとライダー。からかわないでくださいっ! そっ、そりゃ先輩と二人で一緒に海の見えるログハウスでベランダに腰掛けながらワインを傾けて「君の瞳に乾杯」とか、そのあとの雰囲気に身を任せながら顔と顔が迫ってキャーなに言わせるんですかもう!」
「落ち着いてくださいサクラ。私はそこまで言っていません」
陶器をぶんぶん振り回さん勢いのサクラをどうにかして抑える。
「あ、ごめんなさい……。でも旅行に関しては二人きりは多分無理だと思います」
伏目がちになるサクラはわかってはいるんですけどといった風に頷く。
「当たった福引っていうのがペアでなく家族でですから。多分イリヤちゃんや姉さんも、藤村先生ももしかしたらきちゃうかなーなんて」
「言わなければ……いえ、失言ですね。言わなくともどういうわけか知られるのが士郎の家ですから」
そう。
士郎の家だけに限って、いる人間のほとんどが聞き耳になる。
なぜという必要はないだろう。単に皆士郎に気があるからだ。ただそれだけのこと。
「ではみんなで行った後に二人きりになればいいのではないですか?」
リンもセイバーも常時傍にいるというわけではないはずだ。
もし士郎の時間があけば、その間に約束でも取り付けて去ればいい。後の雰囲気はなかなか崩れることはないのだから。
しかし。
自分で言っておいてだが、士郎の鈍感さは常人を三倍したほどのものである。
単に雰囲気だけをプラスしたところで変わることは期待できないかもしれない。そこからはサクラの押しによるところだろう。
「ライダー、なんだか今日は随分積極的じゃありませんか?」
「そうでしょうか? おそらく士郎の鈍感さに少し気が立っていたのかもしれませんね」
とりあえず士郎のせいにしておけばいい。もとよりはっきりしない士郎が悪いのだ。
その言葉にサクラも困った笑いを浮かべて答える。
「誰にでも優しいという意味では長所なんですけどね」
「それにしてもでしょう。サクラも普段から言っているではないですか、士郎の――」
「だ、ダメです! ライダーがそんなこと言ったら嫌いになっちゃいますからっ!」
普段自分が言っているのはいいのだろうか。
「冗談です。何はともあれ士郎たちも家に帰ってきている頃でしょう、報告はそのときにでも?」
「はい。夕飯の準備は一通りできているので、食べ終えてからでも遅くはないかなって」
士郎の驚く顔が目に浮かびますねというと、サクラの頬が朱に染まる。
これ以上の会話を伸ばしていると家路に帰るサクラを邪魔してしまうので、気にならない程度に奥へ戻ろうと身体の向きを変えると、サクラは少しだけ遠慮がちに「ライダー」と呼びかけた。
「はい、どうしましたか」
「アルバイトはいつまでですか?」
「今日は……あと半刻ほどですね」
「では一緒に帰りましょう。洋服についてお話したいこととかありますし」
「すいませんサクラ。たった今私の仕事の時間が一時間ほど延びました」
どう考えてもサクラの洋服について話す流れではない。士郎、リン、タイガにしても同様だ。
「そんなことありませんよ。ね? 店長さん」
「ああ、むしろ今終えてもいいくらいだよ」
「……店長、いつからそこにいたのですか」
陶器屋を営んでいる店主は齢六十を越えた老父である。
夏にしては茶色のトレーナーを着込み、ひざ掛けを片手にこちらを見ていた店主はようやく気づいてくれたかと嬉しそうに笑い、
「桜ちゃんが着てからちょっとした後だったかなあ。福引が当たったんだって? おめでとうな」
「ありがとうございます。でも明日からはちょっと運が悪いかもしれません」
「かははは、んなことはありゃせんよ」
「それよりライダーを借りてもいいですか? ちょっと相談したいことがありまして」
困ります、というところを店長は完璧に遮った。
「いいよ。女には女のお話ってのがあるからな」
「さすが店長、話がわかります」
「ちょっとまってくださいサクラ。勝手に話を進められては困ります」
「あ、心配はしなくていいです。きちんと可愛い服を選びますから」
「それが困るといっているのですが……」
こめかみを押さえながらなぜこの話になったのか必死に模索する。
なぜ今になって洋服を選びに行かないといけないのか。つまるところ私も行くと言うことになっているからだろう、そこをまず打開しないと。
「私は旅行に行けません」
「心配いりません、アルバイトのほうも話はついていますから。ですよね?」
「先ほど来たのにもう根回しが済んでいるのですか? いえそれはいいです。なんとなくわかっていましたから」
アルバイトの他に私にはやることがある。普段から行っているそれは、正直ほかの人間に任せることができない作業だ。
大丈夫といえば大丈夫ではあろうその作業も、しばらくやり続けているとどこか不安なところが見え隠れする。数日間間を空けることでどのようなことが起こるかわからないこともあって、少しばかりの抵抗を感じているのは士郎はおろかサクラにも内緒のことだ。
「ほかにも何かありましたっけ?」
「えぇ、実はあります。流石に誰かに任せるようなことではないので。私は出かけられないのです」
「なんですか」
「いえません」
「どうしてもですか?」
「どうしてもです」
みゃあ。
「ライダー、……とうとう私にも内緒を作ってしまったんですね」
「そういうわけではありません。ですがこればかりは人にいえるようなことではありませんので」
「そんなっ、わたしたち家族じゃありませんか」
「家族といえども内緒のひとつはあります。そもそも私はサーヴァントですと何度――」
みぃ。
「それでも何とかしてきたじゃないですか。わたしのこと信用できないんですか?」
「信用できるとかではありません。ただこの仕事だけはどうしても自分でやりたいのです」
「でもちょっとくらいなら休んでも……」
「できません、その仕事は基本的に毎日同じ時間でないといけませんので」
みゅう――にゃー。
……できる限り、目をあわさない。
それが玄関から入ってこようが、黒いのと白いのと黒と白が混じったのとかがいても、あまつさえ私の足元に頬を寄せてこようとも。
震えそうになる足を必死に棒にさせてサクラから目を逸らさない。
「おや、クロとシロとクツシタじゃないか。そろそろ餌の時間じゃないのかな?」
「店長……少し黙っていてくださいませんか?」
「なぜかねライダーさん。君は確かにこの猫たちに餌を与えていた。そしてそれを理由にせっかくの旅行を楽しむことすら拒否しようとしている。少し謙虚過ぎはしないかね?」
そうですよと嬉々として頷くサクラは、店長の言葉に期待を表している。
「仰っていることは承知しております。ですが」
「洋服になんのコンプレックスを抱えているかはわしにはわからんが、君はもう少しだけわがままになっても良いのではないかな。拒否するもよし、桜ちゃんだってそこまで思慮をしない娘ではないはずだ」
「はぁ……、それは、そうなのですが」
今は亡き遠くの存在を思う。
小柄で、可愛くて、何でも似合うその容姿端麗な姿をはせる二人の影。
天邪鬼な性格でも、姿だけは逆立ちしても私の手にできるものではない。そう否定的に考えてしまうとやはり足が止まってしまう。
いつかキレイではなく、カワイイという存在になれたら。何度も思い描いては、現実を突きつけられたこの巨体。
無理だ。私には到底願うことではない。
「サクラ、やはり私の洋服について配慮する必要はありません」
「ライダー、でも……」
「心配はいりません。相応の服を買いに行くときは是非、サクラに手伝って欲しい」
少し呆けたサクラの顔が、みるみるうちに明るくなっていく。
笑顔に応えて私も微笑む。どうやら私の動力源は、サクラの笑顔にあるらしい。それはそれでいいことだ。
サクラの幸せは、私の幸せでもあるのだから。
「はい。それじゃあ今度の休みに新都へお買い物に行きましょう!」
「そうですね、どうせならまたあのおいしい喫茶店でも寄りながら、時間をかけて楽しみましょうか」
力いっぱい頷き、サクラは「それじゃあ」と陶器屋を背にする。
引き戸が閉まったと同時にため息。困った、あとでキャスターにでも一本電話をしておかないと、柳桐寺のネコの餌だってかかっているのだ。
参ったなぁと思う反面、それも仕方のないことなのだろうかと感じる。
何かを助けるために自分が犠牲になる。余計なお世話なのかもしれないが、この世界に来てまだ私はこの子たちから離れられない。
ダメなのに。わかっていてもそれができるような思いは、まだ出てこないでいた。
「うちのばあさんもネコが好きでな」
「店長の奥様ですか」
足元で転がっているネコを見ながら店長は言った。
「最初は野良猫を拾っちまってな、わしは返して来いっていったんだがばあさんは嫌がって放そうとしないんだよ。しょうがねえってんで昔ネコを家に入れていたんだが……」
「が、どうされたんですか?」
「二年前にポックリ逝っちまってよ」
死。
誰にも平等に与えられる、それ。
「死んじまったその日にばあさんは大泣きしちまって、自分の息子みたいだったんだろうなぁ。そんだけ可愛がっていたわけよ」
確か店長の家庭には子供はいなかったはずだ。
子供のいないおばあさんの気持ちも、どことなく理解できるものでもある。
「それからだ、ばあさんはこれ以上自分より先に死ぬのを見たくないってんで、動物を避けるためのグッズを買い漁るようになっちまってな。好きなんだか嫌いなんだかわけわかんねぇと思ったもんだよ」
「きっと好きだったんですよ。好きだから近寄りたくなかった、別れが悲しいから」
「ああ、だから家にはネコを近づけない代わりに、自分が遠くの山にまで行ってネコの餌を置いていることを知ったときは怒鳴ってやったね。バカ野郎、そんなんでネコを嫌いになれんのかよ! ってさ」
かはははと快活に店長は笑った。
「けどよ。そんなばあさんの気持ち、わからないわけじゃなかったんだ」
「どういうことですか?」
「好きってもんは切っても切れないやつなんだよ。よくいうだろ、愛と憎しみというものほど厄介なものはないってな。夢中になっちまったら人間は止まりはしないんだよ」
「我慢が足りないのはないのですか」
「大切なものが傷つけられたときに冷静でいられる奴は人間じゃねえ」
大切なもの。
脳裏に浮かんでは消え、暗闇の中で一枚の絵が揺らめく。
その姿は誰だっただろうか、一瞬過ぎて思い出せずに言葉は紡がれていく。
「ばあさんは線を引いたんだよ。自分とネコとで、入っていい領域といけない領域ってのを」
「つまり別れを惜しむ関係にならないよう、遠くの存在にしたのですね」
「そういうこった。だからライダーさんも、好きってもんには気をつけろよ」
好きも過ぎれば毒になる。
感情移入も大概にしなければ、私もおばあさんと同じ運命に辿ると悟ったのだろう。店長は釘を刺すように言った。
自分でもわかっているつもりではいたが、店長の言うところはもっと高い視点で見たことなのだろう。
わかっているつもり。
つもりという言葉ほど曖昧なものは無い。
自分でわかっていると思っていても、周りからはそう見えていないのかもしれないのだから。
エプロンをはずす。外にはサクラが日差しを避けて待っているはずだ、急がないと。
備えかけのハンガーにかけ、店長に「あがります」の一言をかけて玄関を出ようとすると、ふと思い出したかのように店長は私に聞いてきた。
「ライダーさん、君にとって桜ちゃんはどんな娘なんだい?」
私は答えた。
「ふへ? はふははんほんほふはぐごっごふっ!」
「だ、大丈夫ですか藤村先生、お水です」
夜。
居候の身でこういうのもなんではあるが、衛宮の家は賑やかである。
いつもであれば静かな空間であるはずの居間も、帰省ラッシュ最中の渋滞状態。台所から運ばれてくる料理もかなりの量となり、テーブルはすでに二つを消費している。
サクラのいうところ、昔は三人しかいなかったと聞く。今と比べればまったく持って想像し難いが、聖杯戦争以来この家は魔術師兼、従者の溜まり場となりつつもあった。
一向に構わない。サクラもこの頃よく笑うようにもなったし、召喚された時を鑑みれば別人のように振舞うほどだ。
一向に構わない。構わないのだが。
「バーベキューだからとはいえ人数が増えてませんか?」
「おっ、おかえりライダー。先に肉を焼いているからドンドン参加してくれ」
「ちょっと、その野菜は私が宗一郎様のために捕っておいたものなのよ! 野蛮な男は手をつけないで頂戴っ!」
「はははっ、頃合を待っているから捕られちまうんだ。男も女も好いたならナマでも奪っちまうのが俺らの基本だぜ?」
「おいお前、野菜はもっと無いのか。肉と野菜のバランスがあってないぞ」
「うるせーな、そんなにいうんだったらお前が持って来ればいいだろ」
「待ちなさいアーチャー。私のエリアに手を出さないで欲しい、こういうのは均等に分けてですね――」
「随分いい肉使っているのねえ、国産?」
「しーろぉー。お酒をもてぇ〜〜い!」
「あーーーーっ! セイバーどさくさに紛れてわたしの分まで食べちゃダメー!」
「みなさんご飯のお代わりはありますから、落ち着いて食べてくださいね」
「……」
目を疑いたくなる光景だ。
ついこの間まで殺し合いをしていた者達がよってたかって一人の家の中に入り、網の上に肉や野菜を置いては向かい合って突っつきあう。
その誰もが殺伐とした空気など持っておらず、むしろこの瞬間を当たり前のように過ごしている。
ある者は怒鳴りあい、貶し合い。
ある者は語り合い、笑いあい。
異常という言葉からはすでに逸している空間のようにも思えた。
だがこの異常こそが士郎のいう正常さなのだろう。
戦う理由こそ無くなればただの友人各位。昨日の敵は今日の友。今では商店街で今日の夕飯の相談すらできる間柄だ。
悩むことこそもったいない。ただ目の前の現実は異常ではなく、彼らにとって正常以外の何物でもないのだから。
であれば、
「手伝いましょうサクラ、士郎。この皿を運べば良いですか?」
「おお、肉と野菜で分けてあるから、適当に持っていってくれ」
といいますが士郎、すでに何名か皿ごと持っていっている者もいますが?
主に元王と野生児と肉の重さを笑顔で隠す年増が。
「何かいいまして? 無駄に背の高いところからいわれると聞こえづらくて仕方ないですわ」
「別にたいしたことではありません。ただ私事ながらたるんだ一部に更なる磨きがかかってしまうのではと身を案じたまでです」
絶句するキャスターを尻目にさくさく進むと、今度は串に刺した肉を頬張る蒼き痩躯。
ランサーもランサーで適当に肉を摘まんではおいしそうに焼いている。その傍には串に刺さった魚がキレイな焦げ目と共に……さかな?
「よう、なに突っ立ってんだ? 早くしないとなくなっちまうぜ」
「……多くは語りませんが、なぜあなたまでここにいるのです?」
一応これだけはお約束として聞いておこう。
「なに、魚屋でバイトをしていたら嬢ちゃんがきてよ。バーベキューする上に福引の券が当たったってんなら、本場の俺が来るのは道理だろ」
口が軽いですねサクラ。発表は落ち着いてからではなかったのですか?
いや、むしろサクラは計算してこれを……。
「あなたたちがここに来てバーベキューをすることに私はなんの異議申し立てをする気はありません。が、できれば魚とは別に焼いて欲しい。肉が生臭くなりますからね」
「ライダー。お前も随分と変わったな」
なにがだ。
「戦っている最中であれば、いやそうでなくともマスターの近くに俺がいるだけで殺気を滲ませてたお前が、まさかそんな小さいことを注意するなんてのがよ」
「食卓の上で顔を見合わせながら殺気が出せますか? 随分と殺伐としたのをあなたは好むのですね」
「……」
「さっきからなにが可笑しいのですか?」
含み笑いをするほどおかしなことをいった覚えはない。むしろ皮肉ったはずだが。
「いやいやライダー。お前は実にまともなことをいってると思うぜ。他の奴らだって思うところはあるはずだからな」
「それで褒めているつもりであるならば、相当女運がないと見受けますが」
「あー、そうだな。女運なんかとことんねえよ」
だけどな、とランサーは前置きし、
「それでいてお前はあのサクラって嬢ちゃんにそっくりだよ」
振り向いた先。
台所で野菜や肉を分けては、皿に盛って運びを繰り返す細身の女の子。
騒いでいる輩たちに絡まれては酒を注ぎ、注文を言われては足を懸命に動かす。
口を汚したイリヤに、さりげなくハンカチで拭う姿は、まるでお母さんのようだ。
綻ぶ笑みは絶えることなく。自分の時間を削ってまで動こうとする自己犠牲精神は、いつから身に付いたものなのか。
わからない。
わからない。
「私はサクラにそっくりではありません」
そう、そっくりであるはずがない。
私はメドゥーサ。多くの英雄を殺し壊し散し、肉親すらもこの身に溶け込ませた悪霊の類。
彼女のように明るく振舞うこともなく、ただ静かに今を過ごすそれだけの存在。
なにがそっくりなものか。彼女は凄惨な過去を受け入れ、それでも前に進もうとする強い人だ。
私のように堕ちてしまった霊ではないのだから。
「そうやって嬢ちゃんを神格化しちまうのも、過去から逃げているっつーのも、過去の楽しい日々を話そうとしないのも」
「知った口を――」
「知らない口だぜ。誰かの過去なんて聞いたところで耳垢になって堕ちるのが関の山だからな」
肉を一口頬張り、
「けどよ、お前も嬢ちゃんも同じ位置に同じように、守りたいもんができちまってんだろ?」
「……」
「守りてえから今頑張る。守りてえから嫌でも笑う。これをそっくりと言わずなんていうのかね」
どうでもいいけどよ。とランサーは野菜を弓兵の方に寄せながら言う。
守りたいもの。……サクラ。サクラの。サクラの?
私はサクラのなにを守りたいのだろう。
漠然とした答えは出そうで出ず、だが確かに私の中ではサクラの中にある何かを守ろうとしている。
「ランサー」
「あん?」
とりあえず癪に障ったので背中を蹴っておいた。
「おわっ! てめえもう少しで炭火の中に顔を突っ込みそうになったじゃねえか!」
「随分と女に対して態度がなっていませんねランサー。教会にいるあのサディストを呼んでもいいのですが」
一瞬引きつった痩躯の顔をして、若干及び腰のランサーは目線をそらす。
「すまなかった。勘弁してくれ」
「分かればいいのです」
「はいはーい、皆さんちゅうもーく! これから衛宮家期待の星、桜ちゃんが音頭をとりますよー」」
酒に酔った勢いで声を上げる大河は、そのまま壇上――という名の廊下――に立っているサクラに全員の視線を向けさせる。
恥ずかしがるサクラは「藤村先生……」と、困った顔で少し俯く。緊張しているのだろう。
いつもであれば一言かけて解す私も、流石に周囲の目を気にせず行動に移れない。ここはどうにかサクラが頑張って……
「てめえ弓使いっ! 俺の肉を取ったな!?」
「知らんな。余所見をしている奴の肉など、取られて当たり前。油断をしているお前が悪かろう」
「ほぅ、ならそのいい色に焼けたカルビ、頂いても構わないというんだな?」
「取れるものならな」
キャンキャン吠える猿と犬――自分で言っておきながら言い得て妙だ――が取っ組み合いのケンカを始める。というよりはじゃれあいの程度だが、場の雰囲気を和ませるには十分だろう。
非常に不器用なやり方だが、アーチャーとランサーはそのつもりでやったのだろう。遠くで見ていたサクラも少しだけ肩の力が抜けているように見える。
「えー、本日は衛宮家開催のバーベキューにお越しいただいて、誠にありがとうございます」
堅苦しい挨拶と共に廊下に立つサクラが、左手にお酒を持ちながら音頭を取り始めた。
無論そんなことお構い無しに肉争奪戦を繰り広げている男集も、ギャーギャー喚きながらも「いいぞー嬢ちゃんー!」など言う余裕はあるようだ。
今思えば、なぜここまで騒がしく迷惑な奴らをサクラは呼んだのだろう。少しだけ理解に苦しむ。
「普段は個々で働いている皆様方、良き夫に尽力を注ぐ奥様、日々を慎みながら過ごすも、今日だけは盛大に騒いでください」
コップを手に持っている士郎も、サクラの声に耳を傾けながらもケンカの様相を見て笑っていた。
……。あぁ、そういうことか。
「静寂であった冬木の町にも、そしてこの家にも、素晴らしい人たちが寄り添うようになりました。それは皆様方の助力があってのものだと思います」
助力はしていない。とささやかに突っ込んでおく。
サクラは士郎と共にいて、士郎もサクラと共に過ごしてきた。年の近しい二人がこの大きな家に住んでいて、寂しいと感じるのは無理のないことだろう。
士郎は親をなくし、一人でこの一家を支えるものとして。
サクラは親族を疎い、静かを望みながらも士郎を想う者として。
もちろんサクラも寂しかったのだろう。家に帰れば拷問以上の痛苦に悩まされ、求愛を注ぐ士郎には悟らせないようしていたのだから。
寂しいと想う暇もなかったのかもしれない。だが彼女は一人であったからこそ、今まで耐えてこれた。そして、寂しさを紛らわすこともできた。
だが、今は人が増えた。
寂しくもなろう。
「私たちは近いうちに旅行に行ってきます。それまで今日のことを糧として、また今日の日を迎えることを思い、健康に気を使い、行ってきます」
少々言い回しがだるくなってきたのか、だいぶ堅苦しさが取れてきた。
それでこそサクラなのかも知れない。誰にでも好かれる雰囲気でありながら、気持ちだけは一途に。そんな思いも、たまには息抜きが必要だ。
「それでは皆さん、今日は目一杯騒ぎましょう、かんぱーい!」
「「「「「「「カンパーイ!!!!」」」」」」」
金属音が鳴り響く。やかましい騒ぎも一層うるさく。どんちゃん騒ぎの夜は更けていく。
あぁ、こんな日もたまにはいい。思って空を見上げれば輝く満月。
私は多分、一生サクラのようにはなれない。あの満月のように、夜に輝くことなど到底叶うはずもなかろう。
それでも……。
私は満月に、小さくグラスを傾けた。
ささやかな祈りと共に。