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 ――雨。
 あめが降っている。
 静寂で、悲哀で、粛々に。
 見ているだけで陰鬱になる、雫たち。
 幸い、私のいるところに雨の見える窓はない。ただ遠くのほうで聞こえてくる断続的な音が止まることはなかった。
 煩わしい。
 思い、波の立たない湖面へと沈ませる。
 言葉は要らない。要るのは思考すること。
 ずぶずぶと、小さな荒波は安定の名に固められた静寂に飲み込まれる。
 上を見上げた。
 まばらな音をたて、薄茶色の向こうでリズムを刻む。

 たんたん――たん――たんたん
 たたん――たった――たたた

 虚空を見上げる。
 何もない空間、何もない世界。
 何かある空間、何かある世界。
 そこに欲するものは何もなく。
 そこに与えるものは何もない。
 虚無。
 ないものを、どこかでねだる。そんな気分だ。
 屋根、音を刻む時計。
 廊下、音を刻む空気。
 部屋、過去を刻む書物。
 急須、未来を刻む湯気。
 そして、戸先。
 粛々と。
 それはまるで現代を繋ぐように。
 あめが降っている。

 ため息をひとつ。
 急須を持ち、廊下に足を運ぶ。幾度か飲んだ煎茶はもう出がらししか残っていない。
 部屋にいたサクラに茶請けのおかわりを聞くと、目を本に向けたまま「お願いします」と言っていた。
 行儀の善し悪しは語れないが、その仕草はどこか今時の女性という風には見えないでいる。
 年に関係なく好かれるというのは、もしかすれば彼女のそういったところが気に入られるのだろう。商店街で顔が利くのも、学校でも人気があるのも、ひとえにサクラの振りまく優しさの賜物か。
 居間の戸を開けると、士郎が寝そべりながら本を読んでいた。

「士郎、台所を借ります」
「んっ、……ああ、お茶なら俺が用意するよ」
「いえ、本を読んでいるのであれば、手を煩わせることでもありませんので」

 言って、台所においてある茶葉を取り出す。
 お茶はイリヤが直接置いていったものらしい。相当高価な茶葉なのだろうが、こと茶葉に関してこだわりのあるものはこの家にはいない。
 イリヤが来たときはあのメイドが一緒にいるため、その辺の管理はしっかりしたものだが。
 そのイリヤはというと、

「背中に頭を乗せて寝ているイリヤを起こすわけにはいかないでしょう?」

 シャツの上で気持ちよさそうに寝そべっている姿。
 銀髪、可愛らしい顔つきが寝ることで更に磨きがかかる。家でだらしなく寝ていた士郎に何を思ったか、イリヤはシロウの背中を枕に、気持ちよさそうにしていた。
 小さく上下に動くお腹は、寝返りによって少しだけ顕になっている。だらしがない、というよりは、仲のいい兄妹がじゃれているように思えた。
 兄妹か。
 その言葉が、少しだけ胸に響いた。

「んぅ……おに、ちゃ……」
「今更ですが、以前あなたを殺そうとしたものによく近づけるものですね」

 茶葉を入れるだけでは退屈なので、少し意地悪な質問を士郎に投げる。

「私然り、キャスター、葛木、シンジ、イリヤ。言えば数多くあなたを殺そうとした者がいます。だというのに、士郎はまるでそのような事実がなかったように接することができる。こういうのはなんですが、異常以外の何物でもありません」
「異常だとか、俺は少なくとも間違ったことはしていないよ」
「その発言もどことなく異常だと思いますが」
「なんでさ」
「殺人を犯そうとするものは常にどこかが狂っています。精神であり、人間の根本的な部分でもあり、感情でもある。そのどこかが狂っているだけで、人は人を寄せ付けようとしない。これは本能の業です」

 復讐というのは明確な理由があるからこそ、狂いが生じにくい。故に近くにいてもわからないことが多い。
 サクラはその典型だろう。
 誰かのために生きながらえ、誰かのために心を抑え付け、誰かのために殺人を決意した。
 そこには明確な理由がある。
 狂うというのはかみ合わない歯車のようなものだと、私は常々思っていた。

「狂者というのに近寄っただけで普通の人は「避けたい」という気持ちを持ちます。ですが士郎、あなたを見ているとまるでその本能が欠落しているように見えます」
「生理的にいやなやつっていうのはいるけど」
「それとは別です。私が話しているのは同属嫌悪のことではなく、異常と正常を分ける機能についてです」

 難しいことを聞くな、と一人ごちながら、士郎は静かに腰をずらす。
 イリヤの頭を動かさないようにして、姿勢を正すように。少女の枕を、今度は膝にして。

「ライダーの言う、異常者をよけようとする機能? っていうのがあるならば、それでも多分俺は正常だよ」
「そうは思えませんね」
「俺が今まで出会ってきた中のやつらっていうのは、何かしら必ず理由があった。たとえば聖杯戦争に勝ち抜くためとか、特定の個人のためとか、もしくは殺すことはいけないと知らなかったとかさ」

 ポットに水を汲み、火にかける。
 イリヤの額を撫でながら、士郎は言葉を続ける。

「異常者っていうのは、ある種の感情が欠落していることをいうと思う。何某かの感情、心が欠落することによって、人としての「なにか」が欠けている。壊れているのではなく、欠けているんだよ」
「破壊ではなく、不足ですか」
「そっ。つまり不足を補ってやれば、異常者は正常者に戻る。とすれば異常者なんてもともとあってないようなもんだろ?」
「では、もともとあったものが破壊されてしまった。というのは」

 サクラは。
 救える、救えないということではなく。
 あなたは、底まで堕ちた彼女を女性として、好きになれましたか? 支えられますか?
 悲しみを背負えますか?
 涙を拭ってやれますか?
 優しくしてやれますか?

 抱きしめられますか?

「……破壊された心は、完全に元には戻らない。元に戻すには、支えになっているものの力が必要だと思う」
「力が手に入らない場合は」
「ある程度までは周りの影響で持ち直すことだってできると思うけど、それ以上は自分の力で立ち上がるしかないな」

 心のがらんどう。
 空白は埋まることなく、埋める空白は、時が奪い去らなければならない。
 意味のない方法、意味のない回答。
 士郎のいうそれは、考え方次第で突き放した言い方に変わるだろう。

「あなたの手には終えないと?」
「そうじゃない。過ぎた優しさは、時に相手を不幸にするだろ」

 あぁ。
 確かに、その通りだ。

「自分がどこか周囲と違う、根本的なところで何かが変と感じること。欠落した誰かっていうのは、まず自分と向き合わなければならないんだ」
「自分と向き合うこと、ですか」
「自分がおかしい、感情論でどこかが変と思うことが、異常と正常になる瀬戸際にいるんだよ」

 それは誰かを殺すことをいけないと思うことであり。
 それは誰かを容易く暴行することを容認しないことであり。
 それは、感情に流されないようにすることでもある。
 士郎は言う。

「俺は結構、感情に流されることがあるけどさ。流される理由がきちんと明確になるまでは我慢できてると思う。絶対にやってはいけないラインみたいなもんだけど」
「……」
「ライダーだって、やってはいけないラインっていうのがあるだろ?」

 私は。
 わたしは確かに。
 越えてはいけないラインを、一度超えてしまった人間だ。
 大洋の彼方の島。
 形なき島で。
 悲しみ打ちひしがれた暗黒神殿の奥の奥。
 理性と強欲に挟まれた視界の中で、私が越えたライン。
 上姉と下姉がこちらに近寄り、――、――。

「異常者であるか、正常者であるか。要約すれば「正しく思えることがあるかどうか」ってことなんだよ」

 キッチンの窓から外を見る。
 相変わらずの雨は確か、今日一日続くと天気予報で言っていた。

「……同じようなことを、どこかで聞きました」
「そっか。同じことをいうやつがいるもんだな」

 苦笑いを浮かべ、

「ところで何で急にそんなことを聞くんだ?」
「他意はありません。ただそうですね、雨が降っていたから。とでもいいますか」

 雨は心を感傷的にする。
 深い傷を表に出し、普段口に出さないことを言わせる何かが。
 ひどく迷惑だ。士郎に意地悪な質問をするつもりが、自分にとって意地悪な回答が出てきてしまった。
 ため息をひとつ、気づかれないようにつく。
 まったく、本当にひどい。
 適当に沸騰してきたお湯をポットに移し変え、器に載せる。

「士郎」

 そう呼びかけると、イリヤの頭を撫でていた士郎の手が止まる。

「どうした」
「お茶請けを欲しいのですが」

 はいよ、といい取り出されたのは煎餅。
 礼をして私は居間を去る。
 梅雨とはいえまだまだ寒い。廊下の床は冷たく、歩くには靴下を履いていたほうがいいと思えるほど。
 と、雨を見つめながら、私は士郎に言われたことを振り返る。
 正しく思えることがあるかどうか。
 私の中に正しいと思えること、譲れないと思えること。間違っていないと思えること。
 わからないことだらけだ。
 召喚されてきた時を振り返れば、私は怪物と呼ばれる側の存在だった。これはゆるぎない事実である。
 しかし日を重ねていくにつれ、私の心に小さな願いのようなものがあることに気がついた。
 それは息を吹きかければ容易く消えるものであり、握ってしまえば脆く崩れ去るものでもある。
 希望。
 私は多分、その希望にすがっているのかもしれない。
 はるか以前に過ちを犯した自分が、今生きている彼女を救いたいがために。
 希薄な存在なのに。願ってしまう私の心。
 それが、私を怪物にしない理由。
 『英霊』でいられる理由だ。

「サクラ、お茶と煎餅を持ってきました」

 どうぞ、と手前に置き、サクラの読んでいる本を流し見る。
 神のいたずらか、悪魔の仕業か。
 それは太宰・治の「人間失格」だった。


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