朝。
私の一日は、布団の中から始まった。
のそりと身体を起こす。横には昔からいた人の顔ではなく、最近知り合った人の顔。
夜中に寝返りをするでもなく、表情だけを見ればまるで死人が寝ているような土気色をしている。
ただかすかな寝息だけは本物の生きている人間のそれだ。
安堵する。いつもと変わらない日常、いつもと同じ日々が送れることに。
起こさないようにベッドから降り、光が射しこむ窓を覗く。どうやら取っ手の部分が緩み、いつでも外から誰かが入れるようになっている。
季節もまだ春先だというのに、良く開けたままにできるものだ。この人は寒さを感じないのだろうか。
昨夜から寒かった文句を軽く思考の奥で吐き捨てて、窓から飛び降りる。外には丁度良い高さの木があり、枝から幹、壁と辿ることができた。
地面に降りて裏口まで歩くと、丁度掃除をしていた女中がこちらに気がついた。
確か翡翠といっただろうか。表情の少ない顔をこちらに向けて箒の手を止めた後小走りにこちらに近づいてくる。
「――――おはようございます」
しゃがみこんだ先の一言は、私に向けているものだろうか。こちらを見ているのだから私のことなのだろうが、わざわざ挨拶をするのはご主人のほかにほとんど見かけない。
私も見られているので、その場所で一応止まってみたりする。しばらくすると翡翠は薄く笑い、目を弓にして頭を撫でてくれた。
結論、いい人である。
「ご飯にはまだ早いから、散歩かな」
少し気持ちいいので、私も撫でられる手に身を任せた。
「私も時間が開いたら遊んで上げられるんだけど、ごめんね」
そういって翡翠が撫でるのを止めて立ち上がり、庭掃除を再びやりだした。気持ちよかったのに途中で止められて、少し残念だ。
だからちょっとわざとらしく構ってくれるように、足の間をなぞってやる。
すると上の方で「ひゃっ」と翡翠が声を上げた。そのまま逃げるように裏口をでて走り出す。
やはり、いい人である。
「や、レンさんおはよーございますっ!」
いつものルートを巡回していると二丁目の次郎にあった。白い毛並みにゴミがついていて、少し汚いやつだ。
口にはどうやら魚屋のお上にもらったアジが加えられている。本日の親父は機嫌がいいようだ、あとでたかりに行こう。
「朝早いのに巡回ですか?」
こくっと頷く。最近この街で猫同士の紛争が絶えないらしく、いつも朝と夕方にはこうしてエリアである商店街を隅々まで歩くことにしている。
マーキングが削られていないか、どこかケンカしている猫たちがいないかを見て回るのが、私の日課である。
それをどう思ったのか、いつも背後には数匹の猫たちがついて回る。
曰く、「姉さんと呼ばせてくださいっ!」と言って聞かない輩。子分とでも言えばいいだろうか。
どこからともなく現れてついてくる少し変なやつらである。
「そうですね、最近大通りのほうで寺子の八兵衛がやられたそうですし……」
八兵衛とは寺に住んでいるぶち猫のことだ。物腰が静かで、ケンカとは無縁の猫であるはずだ。
それがやられたとなると敵は見境がないらしい。私の一番嫌うタイプだ。
「レンさんも気を付けたほうがいいですよ。相手はどうやら誰彼構わずヤリにきてますから」
次郎が心配そうに声をかける。その声と同じくして、後ろに控えていた猫が急に唸り声を上げる。
どうやら近くに見ない顔のやつがいるようだ。
ふと私は次郎に言った。八兵衛は、あの猫の怪我は大事に到らなかったか?
「は、はい。体中に傷を負ってはいましたが、日常に支障が出るほどではないそうです!」
そう、と簡単に呟き、振り返る。
どうやらちょっとしたお仕置きが必要ね。そんな風に考えて先に進むと、先程唸っていた猫が勢い良くゴミ箱に叩きつけられていた。
目の前にいたのは丸々と大きな巨体を見せ付けているトラ猫がいた。ひげた笑みを浮かべてこちらを見下し、明らかに暴力を楽しんでいる風な。そんな感じ。
ムカつくやつだ。
「お前が三咲町で一番強いって言われているやつか?」
言うや否やトラ猫がこちらを舐めるように見て、一笑する。
「はっ、こいつメスじゃねぇか! こんなのがこの街一番の野郎だなんて、随分とこの町は腑抜けが多いらしいな」
連れ添っている猫たちが一様に笑っている。なるほどどうやら後ろにいるやつらもこの街の猫ではない。総出でこちらに戦争を挑んできたようだ。
しかし、言ってしまえば周りから削ろうという魂胆がそもそもガキの発想だ。そんなやつに舐められるとは、私も落ちたものだ。
あ、手の毛並みが。
「―――ちっ、野郎ども、やっちまいな!」
まるで悪役よろしくな台詞を吐くと後ろに控えていた猫たちが一斉に飛び掛ってくる。どうやらこの猫たちにプライドという言葉は存在しないらしい。
一瞥すれば数は五匹、メスだと思って酷く手を抜いた動きでこちらに向かってきていた。
さて。
まず正面からかかってきた猫を右前脚掌底で眉間を抉る。悶絶して倒れこんだ猫を踏み台にしてステップを踏んだ白黒模様の左フックを低い体勢で回避、そのまま頭を上げて顎に強打させる。
それを見た残りの三匹の目が変わる。正面と左右、三方向を塞ぐ事でプレッシャーを与えながらこちらの隙をうかがってくる。
一匹目、右の猫が飛び出してくる。同時に左の猫も同じくして猛進する。
「――――っ」
そこからは本能が動く業だ。
右から飛び掛った猫は宙を飛び、両の前脚を広げて逃げ道を塞ぐようにしてこちらを捕らえようとする。
だが同時という言葉には自らが動かないという条件がある。つまりこちらが直接動くことで同時という利点は一気に欠点となった。
無防備な顔に私の爪が一閃する。そのまま上を通り過ぎ悶絶、動かなくなる。
そして下から猛進した猫が一瞬怯んだ。同時攻撃で仕留めようとしたのだ、やられた相棒がのたうっているのでは作戦も何も無い。
だが身体はもう止まってくれなかった。
「ギャア!」
そしてもう一匹の猫も後脚を顔に食らい、地に伏した。
動けなかった手下の一匹が、脚を震わせている。ビビったのだろう。「ヒィーー!」といいながら一目散に去っていった。
残るは私とトラ猫のみである。
「―――ほう、お前さんやるじゃねえか」
にやけていた顔が少し引き締まり、そしてこちらを伺っている。
やる気だ。
「重量が違うから少しは手加減してやろうかと思ったが、気が変わった。全力で潰すぜ」
それなら初めから疲れるので雑魚を寄越さないで欲しい。口にするでもなくそう思って、さてどうしようと思案する。
別に負ける要素は無い。ただ問題なのがどう倒してやるか、その一点にかかっている。簡単に悶絶させるのもつまらないし、もっとこう、絶対逆らえないようにしてやるのが猫としてのけじめだ。
だとすると……。
「何をよそ見してやがる!」
トラ猫の巨体が突進してくる。当たれば痛いだろうし、ゴミ箱にぶつかって自慢の毛が汚れるのはもっと嫌だ。
ならばっ。
「なっ、なんだと!」
触れるか触れないかの瞬間、飛翔する。まっすぐに突っ込んだ猫の身体は制御が効かず、少しの間を置いて停止するのが精一杯だ。
だがそれだけで十分だった。
ガシッと腰に手を回す。普段はこんな乱暴なことをするつもりはないが、八兵衛のこともある。少しこらしめてやろう。
「まさかお前、やめろっ!」
止めない。
チカラを込める。爪がトラ猫の腹部に食い込み、引っ掛かりをつけてそのまま後に持ち上げた。以前家の主である秋葉がご主人に使っていた技、名前を確かバックドロップと言っただろうか。
勢いをつけて身体をねじる、うにゃあという言葉が聞こえたが、きっと断末魔だろう。勿論そんな声は無視した。
いい感じの音と感触が響く。勝利の瞬間である。
「――――」
感慨深げに倒れこんだ猫を見ているとどうやら頭を強打して立てないようだ。自分の重量がここに来て災いしたらしい、いい気味だと内心ぼやく。
立とうとする後脚を両前脚で脇に抱える。「な、何を」という言葉を漏らすが、そんな当たり前のことに私の口は持ち合わせた言葉などない。
敗者は敗者らしく、勝者に嬲られることこそ相応しい。
「なっ、やめろ一体何をする! う、うわあああああああああ」
おもむろに一物を目にする。
…………………。
フッ―――――。ニヒルに笑ってやると、どこからとも無く切ない擬音が響いた。どうやら目の前の猫が泣いているようだ。まさに敗者。
「うううぅ、これ以上の辱めなんてない……」
まだまだ、これからである。
後脚をまさにその上に乗せ、セット。
敵の脚を伸ばし、準備完了。
「ちょ、それは!!」
待つことなどしない。制止していたはずの脚が徐々に振動を増し、それはいつしか関東大地震なる威力を持ってトラ猫に襲い掛かる。
「ぐあああああああああやめてやめてお願いもう逆らいませんからそんなことをしたらうはははははははちょ強弱とかマジやばいやばいやばいって!!」
まだまだまだまだである。
「ああああああそんな激しく優しくしないでもうお願い許して私が悪かったからああああああそんな風にされるとな・に・か・がめ・ざ・め・るぅううううううぅぅうぅぅ!?!?」
がくがくと口から得体の知れない言葉を吐きながらオス猫が悶絶していく。
かといって流石に私の体力も限界がある、適度なところで止めると、オス猫が「ああぁんもっとぉ」とか言っている。勿論無視だ。
これでしばらくはこの街も安泰だろう。私ながらいい仕事をする。今日も平和な一日が始まりそうだ。
来た道を再び戻る。家の角から覗いていた次郎が何か怯えた様子で私を見て、すぐに敬礼をした。
「っつかれさまです!」
一つ頷き、私も帰路に着いた。
「あら、珍しいですね」
そういった琥珀さんが不思議と嬉しそうに綻んでいる。どうしたのかと下を覗くと、レンがご飯をせがんでいた。二杯目である。
「いつもは一杯で終わるのに、今日はいい運動をしてきたんでしょうか」
「散歩にいい運動も何も無いんじゃないかなぁ」
「いえ志貴様、きっと猫の世界にも色々あるんだと思います」
後ろに控えていた翡翠が珍しく口を挟んできた。なるほど確かに言われれば、レンはこの辺りでかなりの顔が利いている。ちょっとしたことを解決していたのかもしれない。
全く我が家の人間(一部猫)は、いつでも凄いのが多い。
それに気付いているのかいないのか、レンはご飯にがっついていた。