絵を描くって難しい。
 そんなことは解ってる。描けないのを難しいと置き換えて自分の責任を言葉に転嫁しているだけだし。
 だけど、何か足りないような気がして何度も自分の書いてきた絵を見直してみる。そこには普段と変わらない、他者が感じることのできない世界が構築されていた。
 山、川、人工物。どれを見ても何かが欠けている。時間がないというのに、自分が納得のいかない作品では意味がないというのに。
「あーーもう! 応募〆切りまで残り時間がないのにいい!!」
 ガリガリ頭を掻いても悩むものは悩んでしまう、僕の悪い癖だ。悩んで、何度も繰り返して結局はダメにしてしまう。今回もその典型になりつつあった。
 イーゼルに載せられたキャンバスとにらめっこしていても始まらない。だというのに手を動かすイメージも働かない。手詰まりだ。
「お兄ちゃん、まだなのぉ?」
 コンコンと扉の音を鳴らしてやってきたのは妹の茜だった。僕がキャンバスに向っている最中はこうやってよく話しかけてきたりするので、集中したい時に声をかけられるとつい大声を張り上げたくなる。
 だけど、その手に持ってきていた珈琲を見るとその気力も申し訳なさで霧散されていくのだった。優しき妹の心遣いというか…。こんな兄貴で申し訳ないというか。
「あぁ、やっぱり何か足りない気がしてさ。茜は感じない?」
 茜はうーんと一つ唸って、キャンバスに描かれた室内の絵を見つめる。茜は僕と同じで、絵が専門のS大学に通っている学生だ。僕のほうが先輩な分、こうやって聞くのも男としての気持ちが嫌がるのだけれど。
 成績も何故か茜の方がよく、先生からも「茜を見習いなさい」と変な注意を受けることもあった。けれど茜の絵を見れば見るほど、何を学べばいいかよくわからなくなっていく自分がいる。
「あ、わかったよ」
「ホント!? な、何が足りないの!」
 急ぎ立ち上がり、茜の珈琲を持った手を握り締める。
 凡そ兄らしからぬ行動に妹が「ひゃっ」と驚くが、こっちとしては珈琲が零れること以上に大事なことだから凄みが効いているのかもしれない。
「た、多分だけどね……」
「多分?」
「余計な先入観持たせたくないから遠まわしに言うと、お兄ちゃんの絵は「ただの絵」なの。だから、お兄ちゃんの見ている絵は「ただの絵」であって、「見えている絵」とは違うんだと思う」
 …………はっ?
 ど、どういう意味ですか?
「つまり、絵が絵でしかないの。活きていないとでもいえばいいのかな。一本の木を描いても、ただ色を塗って形を創れば良いってワケじゃなくて、その木が本来の活きた様子を描かないとダメなんじゃないかな」
「じゃあ、僕の絵は……」
「活きた感じがしない、落書きみたいなものってこと」
 ぐはっ、思いっきりストレートに言ってくださる。
 でも確かに茜の言う通りかもしれない、絵を見ると単なる絵を描いた作品にしか見えないし、これじゃ審査員の人の目を引くことが出来ない。
 もう一度やり直すほかないのか。時間がもうないというのに。
「あ、でも落書きでも大丈夫だよ。最も有効な使い道が……」
「それより茜、下にいなきゃ不味いだろ。誰かが来るかもわかんないのに」
「え? えっと、それはお兄ちゃんが一生懸命に一般選考のデビュー絵を描いているから、珈琲でもって……」
「それは嬉しいけどさ、気をつけろよ。今時いつ誰が来るかも解らないんだし」
「うん、ごめんね。気をつけるよ」
 クシャッと頭を撫でると、茜は嬉しそうに笑った。こんなに気遣いのきく妹がうちにはいるんだもんな、今度茜の絵でも描いて……ん?
 今、何か重要なことを思いついたような。
「――――おにいちゃん?」
「あかね!」
 ひゃっと、今度こそ珈琲が床に零れた。
「解ったよ! ずっと悩んでいたこと。僕に欠けていたもの。そうだ茜、お前だよ! お前がいたんだ。あはははは」
「へっ、あの、お兄ちゃんどうしたの? そのえっと……」
 顔を赤くして俯く茜の肩を叩いて、キャンバスに向う。筆を握ればうん、今度はスムーズに動くぞ。
「茜、すぐに終わると思うからご飯にしよう。今日は一緒に食べよう」
 振り向かないで茜に言う。暫くの沈黙の後、茜は僕を元気付けるように、
「うん! お兄ちゃん、夢に向ってファイトだよ」
「おう、任せろ!」


 そうして僕の描いた絵を送って数ヵ月後、僕はとある美術展示館に呼び出され、慣れないスーツ姿で声がかかるのを待っていた。
「えー、それでは今回最優秀賞に輝いた作品の発表です。周囲の殺風景な風景の中で、二人の兄妹が優しい微笑を交し合いながら支えあっている姿をそこに在るかのように表現した―――」
 後ろできれいなドレスを着た茜が、小さく拍手をしている。嬉しさと恥ずかしさで、足が自分でも棒になっているのがわかった。
 だけど、僕は迷うことなくその舞台に歩き出した。
「紹介します。作品名は「二人のお留守ばん」―――」


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