桜も散り、辺りは緑多くの葉芽が出始めた頃。
 少女は二刀の剣を持ち歩いていた。自分よりも大きな背丈である木々を眺め、掃除も忙しくなるなと思いながら白玉楼の離れを目指している。
 そこには古い樫の木でできた外壁に幾重にも這う蔦。古い年月を重ねたであろう大きな道場が風格を漂わせて鎮座し、こちらを眺めていた。
 歩く砂利の音が今だけ心地が良い。一人で庭の掃除をしていたり、主人であるお方の世話をしているとどうしてもここには来づらくなってしまう。
 何度も行こうとして、結局は行けなくなってしまう場所。妖夢にとってそれこそがこの道場である。
 ギィギィ音を鳴らしドアを開けると、なるほど清掃すらもされなかった道場の床は埃まみれ。天井からは穴の開いた箇所から小さな射光が漏れ、どこか幻想的な雰囲気を醸し出す。
 これは暇を見つけて掃除でもしたほうがいいか。そう思い、だけどと気分を変換すると妖夢は靴を脱ぎ音もなく道場の中央に進んでいく。

 ……懐かしいな。

 幼い頃は妖忌とここで訓練を重ねていた。剣を持ち、甘い剣撃には厳しい一撃で、迷えばそれすらも吹き飛ばすほどの強さで、そして時には剣を置き徒手での格闘が胸の内に溢れ出す。
 威厳のある風格を身に着けた人だった。が、それ以上に優しい人でもあった。
 正座し、眼を瞑る。視覚を閉じれば聴覚に鳥の声、川のせせらぐ音が心を豊かにさせる。
 野鳥を見に行ったあの時、鳥を斬ろうとした妖夢に妖忌は優しく頭を撫でた。無闇に斬ってはいけないと。
 川に魚を釣りに出かけたあの時、水辺でバシャバシャと遊んだ妖夢に妖忌は微笑した。魚の住処を脅かしてはいけないと。
 道場で瞑想を終え、剣を向き合せる時にいつも妖忌は妖夢に言った。剣は殺すための道具ではない、過ちを正すための道具だと。
 妖夢にはその時、妖忌が何を言っているのかわからなかった。剣は斬るためにあるのだし、殺すも何もない。それ以上に一体何の意味があるのだろうか。
 迷いに駆られた時の妖夢に、妖忌は容赦しなかった。
 模擬剣であるとはいえ、痛いものは痛い。一体何がダメで何が良いのか、妖忌は決して口にしない。全て自分で見て、考え、そして自分が正しいと思えることを相手にぶつける。それが剣のあるべき本来の姿だと。
 辛い時も勿論あった。訓練の痛みに耐えかねて、家出をしたこともある。その度に主人であるお方に捕まり、慰められた。
 
 あらあら、そんなに泣いてどうしたの?

 つかみ所のない人だと、初め見たときにそう思った。淡い桃色の髪がさらさら風に舞って落ち着きのある笑顔を妖夢に向けて。
 決まってどこかに一人で行こうとするとその人が現れた。辛かったり悲しかったりする時に現れるものだから、よく妖夢は彼女に相談をした。
 今思えば愚痴でしかないなと妖夢は振り返る。妖忌が厳しいとか、痛いのに止めてくれないとか、ただそんなくだらない事をよく彼女に話し、そして困ったような笑みを浮かべてこう言った。

 妖夢は、あの人が嫌い?

 そう言われると黙ってしまうのが子供の性とでも言うべきか。嫌いではない。嫌いではないが、弱い相手に厳しく当たるのが堪らなく理不尽に感じていた。それだけのことだと当時は思っていたのに、口にするのは憚られた。
 自分だっていつかは目の前にいる主人を守るべき存在となる。そんな人の前で厳しいのが嫌だとか言うだけで、自分が弱いということを認めているようなものだと思い、それだけは絶対口にしなかった。
 そうやって眼を伏せて流れそうになる涙を堪えていると、彼女は優しく抱いてくれるのだった。
 
 えらいね、よく泣かなかったね。
 
 と。


 眼を開く。何もないはずの空間に、妖夢より背丈のある影がこちらに剣を構えている。
 ゆっくりと立ち、右手から楼観剣を抜き正眼に構え、そして思う。
 何が正しいのか。何のために私は敵を斬るのか。
 灰色の影が姿を揺らめかす。時計回りに妖夢の右へと流れるような動きで駆け、左袈裟斬り。
 流の動きに対し妖夢は静で答える。振り上げられた剣先を楼観剣にあわせ、線の軌道を変えて、床下に打ち込ます。剣を抜けなくなった影の胸に、蹴りが入る。
 影が壁に吹き飛んだと思えばすぐに後ろからの刺突。僅かに身体をずらし、引き手と同時に身体を潜り込ませて剣のつかで顎を穿つ。
 膝が崩れた影が消え、同時に左右から二人の影が妖夢を襲う。一方は袈裟、もう一方は抜刀の構えだ。
 交差。
 楼観剣が抜刀した剣の鯉口を叩く。それと同時に妖夢の頭に落ちる敵の剣を、左手に持った白楼剣が音もなく受け止めた。
 弾く、振り返る、そして斬る。三連動は水のように緩やかに、それでいてしたたかに敵の胴を払った。
 影が薄れていく。暗淀の形は泥と化し、そして二刀の月輪が鞘に収められた。

 ふぅ……。

 一息吹いて、感じ取る。
 西行妖の時、永夜の時、そして六十年目の流転の時。
 私は何のために剣を振ったのか……。

「よ〜む〜」

 あ、しまった。

「はい、幽々子様〜〜〜!!」

 急いで扉に向かい外にでる。眩しい光が妖夢の目を包み、少しだけ視野を奪った。
 そして目が慣れたとき、扉の先にいつもの水色模様の衣に桃色の髪を靡かせた自分の主人がいる。

「前に頼んでおいたお漬物、出来たかしら?」

 随分な話だ。永夜の時に後を託したまま忘れていたのをとぼけて今思い出したかのように言うのだから。
 その漬物が出来ていれば、妖夢も胸を張って「出来ました」と答えられただろうに。

「いえ、その……」
「あらあら。困ったわね」

 表面上はとても困ったように見せて声は全く反対だ。そうやって妖夢をからかうのが、幽々子にはとても楽しいらしい。

「それじゃあ今日は罰としてお餅を作って頂戴。後で博麗の神社で月見でもしましょう」
「は? はぁ……」

 どうしたということだろうか。いつもなら難しいことを言って自分を困らせるのが日課の幽々子様が、今日は何も言わずに餅だけを作れという。何か特別なことがあったのだろうか。
 そう考えていると幽々子はすぐに白玉楼に足を向け、葉芽を見ながら鼻歌を歌っていた。
 まるで今を楽しむように木々たちを愛でては、懐かしむように。

「妖夢………つらい?」
「えっ?」
「一人でお餅作るの、つらいでしょ。今日は特別に私も手伝うわ」
「えっ、いや、いえ。それは私の仕事ですから。幽々子様はゆっくりしていてください」
「いいのいいの。私が好きで手伝うんだし。うん、妖夢はえらいわね」
「はぁ。ありがとうございます……」

 

 妖夢の頭の中で、ただ疑問だけが残っていた。


戻ります?